壺齋散人の 美術批評
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無原罪のお宿り:エル・グレコの幻想




エル・グレコは、1607年に、トレドのサン・ビセンテ聖堂の礼拝堂のために装飾画の作成を請け負った。この礼拝堂は、ペルーで財産をなしたイサベル・デ・オバーリエによって創立されたもので、エル・グレコはこの仕事をするにあたっては、彼女の事績を大いに考慮してやった。祭壇ヴォールトに嵌め込まれた衝立に、ここに提示した絵を飾るほかに、左右の壁にはイサベルの夫ペテロにちなんだ聖ペトロの肖像とトレドの聖人イルデフォンドの肖像を配し、天井には聖母のエリザベツ訪問の絵を配した。エリザベツは、スペイン語ではイサベルという。

無原罪のお宿りと題するこの絵は、グレコの最高傑作との評判が高い。先般東京で行われたグレコ展においても、この絵がハイライトとして扱われていた。たしかに、そうした名声に相応しい傑作だといえる。構図と言い、色彩と言い、宗教的な雰囲気と言い、エル・グレコらしさが最も完成された形で表現されている。

無原罪のお宿りというのは、処女懐胎の別の言い方である。懐胎にはふつう男女の交わりが前提となるが、男女の交わりは原罪だとするのが聖書の解釈である。そこで、男女の交わりなしに懐胎することを、無原罪つまり原罪なしの懐胎(お宿り)と言ったわけである。この絵は一時期、聖母昇天と言う解釈もなされたことがあるが、本来的には昇天ではなく、懐胎の喜びを描いたものなのである。

この絵のポイントはいくつかある。まず天井から下りてきた鳩。この鳩はマリアに彼女がお宿りしたことを知らせる使者であるが、その頭上すぐそばには、ヴォールト上部の窓が開けていて、そこから自然の光りが差し込むようになっている。この鳩は、その自然の光りを帯びるような形で、絵の中に光を放っている。

マリアの足もとにいる天使は、羽をV字型に開いているが、それはどの角度から見ても、羽の頂上が見えるような形になっている。そうすることでグレコは、この絵に躍動感を与えようとしたのだと考えられている。実際この絵は、見る者に対して、たんなる平面的な絵ではなく、立体的な動きを感じさせるような効果を発揮している。

一番下には、トレドの街が広がっている。この町は、奇蹟が起こる舞台として相応しい宗教的な厳粛さを湛えている。その厳粛さは、トレドの街そのものを描いた絵の中でも強調されていたものだ。また、町の手前に描かれた鮮やかな色彩の花は、あたかも本物の花のように見える。この絵の下はすぐ祭壇になっていただろうから、この花はその祭壇に実際に活けられた花のように見えたであろう。

このように、この絵には多くの見どころがある。だが、その金銭的評価を巡って、またもやエル・グレコは訴訟を起こし、そのために実際に祭壇に設置されたのは1615年になってからだという。また、1711年には、両聖人像が礼拝堂から撤去され、この絵もその後、別の聖堂に移された。

(1608~1613年、キャンバスに油彩、347×174cm、サン・ニコラス聖堂、サンタ・クルス美術館に寄託)





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