壺齋散人の 美術批評
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我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々は何処へ行くのか:ゴーギャン、タヒチの夢





「我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々は何処へ行くのか(D'où venons-nous? Que sommes-nous? Où allons-nous?)」は、ゴーギャン畢生の大作であり、彼の代表作でもある。なにしろゴーギャンは、自殺する決意を固めた上で、この世を去るにあたっての遺言のつもりでこの大作を描いた。気迫がこもっているし、彼の人生や世界についての考えが集約的に表現されたものであるから、見る人を圧倒する迫力がある。

タヒチの田園地帯を背景に、そこに生きる人々の姿を通して、自分なりの考えをイメージしたのがこの絵だと言えそうである。画面右手下に生まれたばかりの赤ん坊が大地の上に寝転び、画面中央では人生の盛りにある人物(女)が体を伸ばして木になった果実をもぎ取り、画面の左手下には老婆がうずくまっている。この一連の流れは、誕生から老衰にいたる人生の各段階をあらわしているといえよう。

全体的な雰囲気として言えるのは、自然の豊かさへの賛嘆と人の生き方への共感が見られるということではないか。これはペシミストとして、ヨーロッパの文明を嫌悪し、人間性に絶望していたゴーギャンとしては、著しい心境の変化を物語っていると受け取れる。彼はいよいよこの世を去るにあたり、世界と和解する気持になったのかもしれない。

背景は綿密に描かれながらもトーンとしては暗くまとめられ、その暗さをバックにして、明るく描かれた人物が浮かび上がるように工夫されている。同じく人物でも、背景にいるものは暗く描かれ、背景の一部として前景の人物の引き立て役にまわっている。

色彩は非常に豊かだ。ありとあらゆる色相を混在させることで、色に深みを与えている。それ故前景の人物の単純な色合いが余計に引き立って見える。



これは画面の右半分。赤ん坊の左手に二人並んで座っているのはこの赤ん坊の両親だろう。両親の背後には二人づれが夢遊病者のように徘徊しているが、彼らが歩いているのは深い森の中である。両手を差し伸べて木の実を取ろうとしているのは、イブのイメージを現わしたのだと思われる。ゴーギャンはこの絵について、福音書の物語をイメージしたと書いている。



これは画面の左半分。青白い像は、タヒチの至高の神タッアロアだと思われる。タッアロアはタヒチ人にとっては世界の創造神である。左端の白い鳥もタヒチの神話からとったイメージかもしれない。

ゴーギャンはこの大作を完成してすぐに砒素を飲んで自殺を図るが、未遂に終わって生き延びることとなる。もっとも余命はいくらも残されてはいなかったが。(1897年 カンヴァスに油彩 139×375cm ボストン美術館)





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