壺齋散人の 美術批評
HOMEブログ本館東京を描く水彩画ブレイク詩集フランス文学西洋哲学 | 万葉集プロフィールBBS


タヒチ牧歌:ゴーギャン、タヒチの夢





1899年から1900年頃のゴーギャンは絵の制作意欲が低かった。その代わりに彼が情熱を燃やしたのはジャーナリズムだった。彼は「レ・ゲープ(すずめ蜂)」という新聞の編集者になって、現地の白人社会の腐敗振りを攻撃したり、中国人への嫌悪感をむき出しにして黄禍論を展開したりと、わけのわからぬことに熱中した。わけのわからぬ、というのは、芸術家としての立場をわきまえず、無意味なことがらに現を抜かしたという意味である。

しかし、そんなわけのわからぬ振る舞いのために、ゴーギャンは様々なトラブルを引き起こし、訴訟沙汰にも巻き込まれるなど、タヒチにいづらくなった。そんなわけで彼は、1901年早々、タヒチを去ってマルキーズ諸島に移る決心をするのである。それについては、ゴーギャンの名声がヨーロッパで俄に高まり、絵が高く売れるようになったために、経済的に楽になったという事情も働いた。もはやいまいましいタヒチの社会につなぎとめられている理由はない、そうゴーギャンは判断したのであろう。

「タヒチ牧歌」と題するこの絵は、タヒチを去る直前に描いたもので、タヒチでの生活の総決算ともいえる作品である。マタイエアの珊瑚礁の海と、豊かな自然、そして粗末な家とのどかなタヒチの人々、といった具合に、タヒチの要素が万遍なく盛り込まれている。

画面の大部分を赤茶けた大地が覆っている。その大地から生えた植物が、うねるようにして空へ伸びている。赤茶けた大地と並んで、叢や海がグリーンで塗られ、強烈な補色対比を演出している。



これは海上の帆船の部分を拡大したもの。この船はサンフランシスコに向けて出帆するはずだったものの、目的地で疫病が流行したために、出発を見合わせて停泊していたということである。船の往来が途絶えたことで、タヒチでは物価が騰貴したという。(1901年 カンヴァスに油彩 74.5×94.5cm チューリッヒ ビュルレ・コレクション)





HOMEゴーギャン次へ










作者:壺齋散人(引地博信) All Rights Reserved (C) 2011-2017
このサイトは、作者のブログ「壺齋閑話」の一部を編集したものである