壺齋散人の美術批評
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フリーダ・カーロの世界 代表作の鑑賞と解説


フリーダ・カーロ(Frida Kahlo 1907-1054)は、西洋美術の歴史の中でヨーロッパ大陸以外からはじめてあらわれた本格的な画家である。ヨーロッパ美術の伝統を踏まえているが、それの単なる模倣ではない。メキシコの芸術的な伝統をふんだんに取り入れている。その点は、ヨーロッパ美術の模倣の域を脱しない日本の「洋画家」たちとは違う。しかもフリーダは、単に絵を描くだけではなく、絵を通じて自分の人生を表現した。

彼女の人生は、個人的な痛みと世界に対する社会的な怒りに彩られている。彼女の怒りは、マルクス主義によって論理化された。彼女は、ディエゴ・リベラの影響もあって、マルクスに傾倒していた。トロツキーとの有名な交際も、マルクス主義の共有から始まった。

フリーダの父親はハンガリー・ドイツ系ユダヤ人の移民一世。メキシコで成功し、知的で芸術の趣味もあった。フリーダの芸術上の才能は父親譲りだと思われる。母親は先住民(インディオ)の血をひく。フリーダのメキシコ文化への敬愛は母親の影響であろう。フリーダは数多くの自画像を残したが、それらのほとんどはメキシコの伝統衣装であるテワナを着た姿を描いている。

フリーダは生涯に二度大きな病気をわずらった。一度目は6歳のときに小児まひにかかったことだ。その後遺症で、くるぶしから下の成長が止まってしまった。フリーダの全身像の自画像は、非常に小さな足が印象的である。ディエゴと並んだフリーダは、その小さな足のために、子どものように見える。二度目は18歳の時に交通事故にあったこと。この事故のためにフリーダは、脊椎をひどく損傷した。痛みがひどいので、何度も手術を受けねばならなかった。しかも、脊椎損傷のため、二度の妊娠いずれも流産した。彼女は子どもを欲しがっていたので、それはつらいことであった。

フリーダは画家としての特別な教育は受けなかった。自己流である。彼女が本格的に絵を描くようになるのは、18歳で事故にあってからである。この事故のため、彼女は長いベッド生活を強いられた。その間、無聊をなぐさめるために、主に自画像を描き始めた。それ以来彼女は、自画像を最も得意とするようになった。

フリーダが運命の人ディエゴ・リベラと出会うのは1928年のことである。女流写真家ティナ・モドッティの紹介で、当時文部省の壁画を手掛けていたリベラに、フリーダは自分の作品を持参して面会した。フリーダの作品を見たリベラは、彼女の才能を認め、絵を続けるように励ました。そのころフリーダはメキシコ共産党に入党した。リベラもマルクス主義者だった。

リベラはフリーダより21歳も年長だったが、二人は1929年、つまり出会った翌年に結婚した。1931年の作品「フリーダとディゴ」は、結婚間もなくのころの二人を描いたもの。巨体のディゴの脇に立っているフリーダは、民族衣装のテワナをまとっている。スカートの裾から垣間見える二つの足は小さな子どものようである。

1930年11月以降、ディエゴの仕事の都合で、二人はアメリカで暮らすことが多くなった。デトロイト滞在中に、一人目の子どもを流産した。その折のつらい体験を、フリーダは「ヘンリー・フォード病院」以下いくつかの作品で表現している。

ディエゴはアメリカでの生活を楽しんでいたが、フリーダはうんざりしていた。なるべく早くメキシコに帰りたいと思ったがなかなかかなわなかった。そのつらい気持ちとアメリカ文化への反感を「メキシコとUSAの境界に立つ自画像」などで表現している。

二人がメキシコへ戻るのは1933年12月である。ニューヨークで制作していた壁画にレーニンの面影を描いたことが、注文主のロックフェラーを激怒させ、契約を打ち切られたのだった。メキシコへ戻ったすぐ後にフリーダは二人目の子どもを流産した。そのころからディエゴとの関係が悪化した。ディエゴがフリーダの妹クリスティーナと恋愛関係になったためである。フリーダは右脚を二度も手術するなど、踏んだり蹴ったりのありさまだった。

1937年1月にレオン・トロツキーがメキシコにやってきた。フリーダはトロツキーをコワヤカンの自分の家に住まわせた。そのトロツキーが縁結びで、フランスのシュール・レアリスト、アンドレ・ブルトンと知り合いになった。ブルトンはフリーダの作品をシュール・リアリズムの傑作だと評価した。

1938年には、ニューヨークで初めての個展を開き、それを契機に彼女の名声が広がった。とくにシュール・レアリズムの画家たちから大きな声援を受けた。一方ディエゴとの関係は悪化したままで、1939年の年末に離婚することになった。そのころから、フリーダの傑作というべき一連の自画像が描かれた。それらはほとんど同じ構図で、いささかオートメーションのきらいがないわけではないが、それは経済的な自立を目指したフリーダが、なるべく多くの作品を描かねばならぬと思ったからである。

フリーダは、離婚後一年で復縁に同意した。条件付きである。もうセックスはしないこと、経済的な自立も含めて自由気ままにさせてくれることだ。1940年代の前半は半身の自画像を多く描いた。1944年以降は、自分自身の身体的な苦痛をテーマにした作品を多く描いた。「折れた背骨」や「傷ついた鹿」といった作品である。

1946年にはニューヨークで脊椎の手術を受け、また1950年にはメキシコで七回も手術を受けたが、脊椎の状態はよくはならず、かえって悪くなった。そのためフリーダの晩年は苦痛に満ちたものになり、制作活動も低下した。彼女は1953年に右脚を切断され、その翌年に死んだ。享年満47歳のことである。


時は飛ぶように過ぎ去る フリーダ・カーロの自画像

フリーダとディエゴ・リべラ フリーダ・カーロの世界

ヘンリー・フォード病院 フリーダ・カーロの世界

メキシコとUSAの国境に立つ自画像 フリーダ・カーロの世界

私の衣装がかかっている、あるいはニューヨーク フリーダ・カーロの世界

ちょっとした刺し傷 フリーダ・カーロの世界

思い出、あるいは心臓 フリーダ・カーロの世界

レオ・トロツキーに捧げた自画像 フリーダ・カーロの世界

乳母と私、あるいは乳を吸う私 フリーダ・カーロの世界

フラン・チャンと私 フリーダ・カーロの自画像

猿のいる自画像 フリーダ・カーロの世界

ザ・フレーム フリーダ・カーロの自画像

ドロシー・ヘイルの自殺 フリーダ・カーロの世界

水の中に見たもの、あるいは水がくれたもの フリーダ・カーロの世界

ふたりのフリーダ フリーダ・カーロの世界

森の中の二人の裸婦 フリーダ・カーロの世界

断髪の自画像 フリーダ・カーロの世界

傷ついたテーブル フリーダ・カーロの世界

ドクター・エレッサーに捧げる自画像 フリーダ・カーロの世界

茨の首飾りの自画像 フリーダ・カーロの世界

編み上げ髪の自画像 フリーダ・カーロの世界

私とオウム フリーダ・カーロの世界

テワナ衣装の自画像 フリーダ・カーロの世界

死を考える自画像 フリーダ・カーロの世界

折れた背骨 フリーダ・カーロの世界

希望もなく フリーダ・カーロの世界

モーゼあるいは太陽の核 フリーダ・カーロの世界

傷ついた鹿 フリーダ・カーロの世界

希望の木 フリーダ・カーロの世界

髪をといた自画像 フリーダ・カーロの世界

太陽と生命 フリーダ・カーロの世界

愛の抱擁 フリーダ・カーロの世界

生ける自然 フリーダ・カーロの世界

マルクシズムは病を癒す フリーダ・カーロの世界



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