壺齋散人の 美術批評
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エマオへの道:ブリューゲルの風景版画




エマオの物語は、ルカ福音書にあるキリスト復活をめぐる物語だ。エルサレムからエマオに向かう二人の旅人に、復活したキリストが道連れに加わる、三人はエマオで泊まることとし、食卓でキリストがパンを裂いてほかの二人に与えると、二人の目は輝き、目の前にいるのが復活したキリストだとさとるのであるが、その瞬間にキリストの姿が消えるというものだ。

このテーマも多くの画家によって描かれてきた。レンブラントやファン・メーヘレンのものが有名だが、いづれもキリストのパンを手にもつ姿が描かれている。

だがブリューゲルのこの絵は、三人の旅人達が森の小道を急ぐ姿が描かれているだけで、彼らがどうしてキリストの一行だといえるのか、絵を見ただけではわからない。わずかに地平線に描かれた光輪があるおかげで、この絵が宗教的な題材を描いていることを暗示させるだけである。

実際には、ブリューゲルはほかの風景画と同じような意識からこの絵を描いたのだと推察される。それをエマオに結びつけたのは、コックなのだろう。コックはこの絵を宗教画らしく見せかけるために、原作にはなかった光輪を後から付け加えた可能性が高い。

こうした余分な修飾を除いてこの絵を見ると、のびやかな田園風景とアルプスの山を組み合わせた、ブリューゲル一流の世界風景だと思われてくる。

ところで、このように自分の意図を超えたところで絵が独り歩きすることについては、ブリューゲルは苦々しく感じていたフシがある。その苦々しさは、版画というものの持つ本姓に対しても感じられることだった。

版画は下絵をもとにしているとはいえ、彫師が介在することで、原作とは違ったものになる運命がある。時には作者の意図とは非常に異なったものになる可能性さえある。ブリューゲルはそこに、自分の手が届かないことのもどかしさを感じたのかもしれない。

そのもどかしさが、比較的短い時期に風景画から遠ざかるに至った大きな要因なのだろう。風景画は人々の視覚に訴える芸術であるから、人手が介在することで自分の意図が歪んでしまい、異なったメッセージが見る者の目に伝わる危険性がある。ブリューゲルがそこに耐えられないものを感じたとしても、不思議ではない。





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