壺齋散人の 美術批評
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デューラーの生涯


アルブレヒト・デューラー(Albrecht Dürer)は1471年にドイツ南部の都市ニュルンベルグに生まれた。父親(やはりアルブレヒトといった)は金細工師で、デューラーが生まれたとき42歳であった。母親のバルバラはまだ19歳で、デューラーは三番目の子であった。バルバラは、デューラーを生んだ後も15人の子を産み続け、併せて18人を生んだのだが、そのうち成人したのはわずかに3人であった。デューラーの時代には、死が猛威を振るっていたのである。

デューラー自身が書き記した「家譜」によれば、デューラーの先祖は「ハンガリー王国のヴァルダインより下手(南)へ8マイル離れたジューラと呼ばれる町から遠くない、直ぐその傍らのアイトッシュという名の小村」の出身だった。祖父アントニーがジューラの金細工師のもとで修業し、以来金細工が一家の家業となった。

父親のアルブレヒトも、金細工師の仕事を継いだ。その後ドイツへ来て、長らくネーデルラントの大芸術家たちのもとにいたが、最後にはニュルンベルクにやって来て、そこで金細工師として自立した。

デューラーは、小さい時から父の工房に出入りして、金細工の技術を修業した。金細工とは彫刻刀で金属を刻み込む技術であり、そこで磨いた技術は、後に銅版画の技術に大いに生かされた。

父親は、息子のデューラーにも金細工師になってほしかったが、息子の方は金細工よりも絵画に強い関心を抱いた。そこで父親は息子の希望を聞き入れ、15歳の時に、地元の画家ミヒャエル・ヴォルゲムートのもとに、三年契約で徒弟奉公に出した。

ヴォルゲムートの絵画は、ネーデルラントの写実的絵画の強い影響下にあった。ここでデューラーは、彼の最大の特徴となる写実的な画風を徹底的に身に着けたものと思われる。また、ヴォルゲムートの工房では、木版画の制作も行われていた。デューラーはここで学んだ木版画技術を生かして、後に木版画の傑作といわれる作品群を生み出すのである。

ヴォルゲムートのもとでの徒弟修業を終えたのち、デューラーは1490年の春に、職人遍歴の旅に出た。それに先立ってデューラーは、両親の肖像画を描いているが、それらには、ネーデルラントの絵画の影響が強く見られる。デューラーがネーデルラント絵画の影響下から出発したことを、如実に物語る作品であると言える。

当寺のドイツでは、職人たちにとって遍歴は不可欠の修行であった。遍歴を通じて、技術を磨き見聞を広めるとともに、人間性をも成長させるのが目的だった。遍歴をしなければ、どんな職人も親方にはなれなかった。画家もまた、そうした職人の一員だったのである。

遍歴時代におけるデューラーの足跡は、詳細には明らかでないが、1492年にはライン川上流のコルマール、同年にバーゼル、1493年にはシュトラスブルグにいたことが確認されている。コルマールを訪ねたのは、マルティン・ショーンガウワーに会うためだった。ショーンガウワーは当時のドイツ画壇の重鎮で、デューラーがもっとも大きな影響を受けた人物だったが、彼が訪ねた時には既に亡くなっていた。デューラーはそのかわり、ショーンガウワーの弟子たちと交流した。バーゼルやシュトラスブルグでは、木版画の下絵師として働いたものと思われる。

4年間の修行を終えたデューラーは1494年にニュルンベルグに帰ったが、帰るとすぐにニュルンベルグの名家の娘アグネスと結婚した。しかし結婚式をあげてわずか3か月後に、デューラーは単身でベネチア旅行に出発した。目的は、イタリアの絵画を学ぶことだった。イタリアの絵画はあらゆる点でネーデルラント絵画とは異なっていた。単純化して云えば、ネーデルラント絵画が静的で落ち着いた雰囲気をたたえているのに対し、イタリア絵画は動的で明るい雰囲気が横溢していた。デューラーはイタリア絵画を学ぶことで、自分の芸術の幅を広げようとしたのだろう。

1495年の晩春に、デューラーは半年ぶりにニュルンベルグにもどった。それ以降1500年頃までは、銅版画と木版画の制作がデューラーの活動の中心を占めた。それらの版画は、ヨーロッパ中に迎えられ、デューラーは若くして、偉大な版画作家として認められた。

1505年、デューラーは2度目のイタリア旅行をした。直接的なきっかけは、この年にニュルンベルグを襲ったペストから逃れるためだったといわれる。しかしこの旅行は、デューラーにとって大きな転機をもたらした。イタリアの絵画を改めて学び直すことによって、版画や水彩画にとどまらず、油絵の世界でも大きな進歩を遂げたのだった。その辺の事情を、デューラーは次のように表現している。

「私は、版画はうまいが絵では色の取り扱い方を知らないと言った(当地の)画家たちをみな黙らせてやりました。今では誰でもこれより美しい色を見たことがないと言っています」(ピルクハイマーあて書簡、前川誠郎訳)

デューラーの自信の程が伺える。実際、彼の油絵の傑作には、第二次イタリア旅行の後で描かれたものが多いのである。

1513年から1514年にかけて、デューラーは全力を挙げて銅版画の制作に打ち込んだ。今日デューラーの三大銅版画として知られるものであり、美術史家のなかには彼の最高傑作だというものもいる。

これらの銅版画には、ある意味でデューラーの芸術の特色が凝縮された形で込められている。というのも、形態の彫刻性はイタリアルネサンスとの強い結びつきを感じさせる一方で、主題が物語っているのは、ドイツの中世的な伝統意識なのだ。だからこれらの作品は、中世と近代との融合、あるいは両者の結婚だとする解釈を許すのである。

1520年、デューラーは妻のアグネスを伴ってネーデルラントに旅行した。前年に皇帝マクシミリアン一世から与えられた年金の権利が危うくなりそうになったので、新皇帝カール五世に改めて保証してもらうことが直接の目的だったとされる。

この旅行中デューラーは、どこへいっても大歓迎を受け、多くの有名人とも会うことができた。彼はすでに、ヨーロッパ有数の有名人になっていたのである。エラスムスと会ったのもこの旅行中のことであるし、またルターを巡る様々な動きに一喜一憂したのもこの旅行中のことであった。

この旅行中にはまた、デューラーは奇妙な病気にかかった。間歇的に高熱に冒されるという病気で、以後デューラーはその後遺症のために、健康を著しく害した。結局この病気がデューラーにとって「死の病」となった。彼は1528年の4月6日に、57年の生涯を閉じたのである。





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