壺齋散人の 美術批評
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デューラーの父




アルブレヒト・デューラーの父親は、やはりアルブレヒトという名前だった。そのアルブレヒトは自分の家族や生涯の出来事についてメモを残していたらしく、息子のアルブレヒトはそのメモに基づいて「家譜」を書いた。それによれば、父親はハンガリーの小さな町で生まれ、家業の金細工を習い覚えて後、ドイツへ来て、長らくネーデルラントの芸術家たちのもとにいたが、1455年にニュルンベルグにやっていた。息子のアルブレヒトは、このニュルンベルグで生まれ、そこで一生を過ごすことになる。

ニュルンベルグに来た父親は、当地の名家ピルクハイマー氏の世話になって邸の一角を提供され、また、ニュルンベルグの金細工師イェロニムス・ホルパーのもとで、1467年まで奉公した。そしてその仕事ぶりを師匠に認められ、15歳だった娘バルバラを妻として与えられた。デューラーはこのバルバラが19歳の時に(1471年に)産んだ子である。三番目の子であった。

父親の作品は今日に一つも伝わっていないが、優れた工芸家であったらしい。というのも、1489年には皇帝フルードリッヒ三世から仕事を依頼され、リンツに召されていることが明らかになっているからである。

こうした仕事ぶりが評価されて、父親はニュルンベルグで成功したのだと思われる。ヴィンツィンガーは、デューらの一族はもともとハンガリーのドイツ人入植者であり、父親はそのドイツに出戻ったのではないかと考えている。そう考えれば、彼がニュルンベルグの上流社会に速やかに受け入れられた背景が納得できるというのである。

ヴィンツィンガーはまた、デューラーの家の名はハンガリーの小都市アイタスに由来するのではないかとも言っている。アイタスとは「門」(テューレ)という意味であり、そこから「デューラー」と名乗ったのではないかというわけである。デューラーの家紋にも「門」が使われており、デューラー自身のモノグラムにも門を思わせるような意匠が施されている。

1490年の4月に、デューラーは4年間にわたる遍歴の旅に出発するが、それに先立って、両親の肖像を描いた。そのうち父親を描いたのが上の作品である。(板に油彩、47.5×39.5cm、フィレンツェ、ウフィチ美術館)

この時の父親は65歳前後であった。彼は斜め前方を見つめ、両手でロザリオをいじくっている。その表情からは、職人らしい律義さが伝わってくるようだ。

このように、半身像の形で顔と手の表情を強調するのは当時のネーデルラント絵画の特徴だった。この絵の中の人物が、枠の中にせせこましく収まり、しかも両腕がややバランスを失していじけているように見えるのは、こうした伝統に無理にはめこもうとした結果と考えられる。



これは、1497年に描いた父親の肖像である。(板に油彩、51×39.7cm、ロンドン、ナショナル・ギャラリー)

やはり斜め前を向いた半身像だが、前の物と比べると、ポーズにゆとりがあるように見える。前の絵が、顔と手にこだわるあまり、全体のバランスを犠牲にしているのに対して、この絵では、顔も手も人体の一部分として、収まるべき所におさまっている。イタリア旅行中に身に着けた技術が反映しているのだろうと推測される。

この絵に描かれた時、父親は72歳前後だったが、その5年後、赤痢にかかって死んだ。その父親の一生をデューラーは次のように書いている。

「アルブレヒト・デューラー一世はその生涯を大きな労苦と酷く激しい労働に過ごしたが、自身と妻子のために彼の手で得たもの以外には糧とすることがなかった。その故彼は極めて僅かの財産をしか持っていなかった。彼はまた多くの煩悶と試練と逆境に出会った。しかし彼は彼を知っている多くの人々から良き評判を受けた。何故なら彼は尊敬すべきキリスト者としての生涯を送り、忍耐強い男であり、また心優しく、誰に対しても温和だったからであり、神に強く感謝していた。彼は大勢の仲間や世俗の喜びを必要とはせず、また口数少なく神を畏れる男であった」(「家譜」前川誠郎訳)





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