壺齋散人の 美術批評
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デューラーの妻




デューラーは1494年の5月に、4年間にわたった遍歴を終えニュルンベルグに戻ってきたが、その7週間後に父親の計らいで結婚した。相手はニュルンベルグの大商人ハンス・フライの娘アグネスであった。アグネスは婚資として200グルデンを持参してきた。この金で、デューラーは一回目のイタリア旅行に行くのである。

この一回目のイタリア旅行は、結婚して3か月後のことだが、デューラーは若い妻をニュルンベルグに置いたまま、単身で旅立った。1505年に行った2回目のイタリア旅行でも、デューラーは単身だった。また彼らは、ついに子を持つことがなかった。そんなところから、デューラー夫妻はあまり仲が良くなかったのではないかと推測されるようになった。それには、デューラーの親友であったピルクハイマーの証言も与っている。ピルクハイマーは、デューラーが若死にしたのは、妻のアグネスが虐待したからだと、友人宛の手紙で述べたのである。

真相はわからない。しかし、デューラーが描いたアグネスの姿を見ると、そこにはアグネスへのデューラーの愛を感じることができる。デューラーは、女性の人物画のモデルとしてアグネスをよく使ったと思われるが、仲の良くない夫婦同士が、そのようなことを頻繁に行うというのも考えがたい。

「我がアグネス」と題されたこのスケッチ(紙にインク、15.6×9.8cm、ウィーン、アルベルティーナ美術館)は、1490年の作だから、結婚前後に描かれたものだ。確実なタッチで、しかもサラッとした筆遣いで、若い女性のはちきれるようなみずみずしさを表現している。



この絵(亜麻布のキャンバスにテンペラ、パリ国立図書館)は1521年のものだ。この年デューラーはアグネスを伴ってネーデルラントに旅行している。この作品は、その旅行中に描かれたものかもしれない。この旅行中には、同じようなポーズをとったアグネスの肖像画をもう一つ描いており、それには「アントウェルペンにて制作、27年目の結婚記念日に際して」という説明が付されている。





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