壺齋散人の 美術批評 |
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四人の使徒:デューラー最後の大作 |
デューラーは死の二年前1526年に「四人の使徒」をモチーフにした大作を仕上げ、それをニュルンベルグ市参事会に寄贈した。四人の使徒は二枚の画面に二人ずつ描かれており、左側がヨハネ(左)とペテロ、右側がマルコ(左)とパウロである。彼等はそれぞれ等身大に描かれている。 この大作の成立経緯については、様々な説がある。そのひとつに、これはもともとヘラー祭壇画と同じく三連式の祭壇画として構想されたのが、事情の変化によって、中央画面を省いた両翼のみの特殊なセットとして描かれたというものである。その場合にも、もともとの構想では両翼にはそれぞれ一人ずつの肖像が配される予定であったのが、二人ずつになったというおまけの解釈がつくことがある。(パノフスキーなどの説) 三連式祭壇画の計画を変更したことの背景には、ニュルンベルグにおける政治情勢の動きが関係しているといわれることもある。1521年のルター逮捕以降、ドイツの政治情勢は大変な混乱を呈するようになり、いわゆる宗教革命の嵐が吹き荒れる事態となった。そんな中で、ニュルンベルグはルター派の新教を取り入れることを決定したのだった。それ故、ニュルンベルグにおいては、カトリックを想起させる三連式祭壇画は相応しくないと判断されたとしてもおかしくはない。 更に、ニュルンベルグにおいては、新教内部での対立が激化し、異端裁判が行われるような事態が起こった。その裁判の被告にはデューラーの弟子も含まれていた。デューラーはそうした宗教的熱狂を見るにつけて、宗教的な寛容を人々に訴えざるを得ない気持ちになった。この一対の肖像画は、デューラーが四人の使徒に託して、宗教的な寛容を訴えたのだというのである。 この説を強く主張しているのはヴィンツィンガーである。彼によれば、四人の使徒の脚下にそれぞれの使徒の言葉が記されており、それらの言葉は人々に宗教的寛容を呼びかけているという。 また、ヴィンツィンガーは、四人の使徒は「四つの気質」のそれぞれが割り当てられているとも言っている。ヨハネが多血質、マルコが胆汁質、パウロが憂鬱質、ペテロが粘液質だというのである。 ともあれ、このような構成の絵画はデューラー自身の「アダムとイブ」のほか例がない。また、デューラー以後にも現れることはなかった。美術史上孤高の作品と言ってよいのである。 (1526年、板に油彩、それぞれが218.8×76.2cm、ミュンヘン、アルテ・ピナコテーク) |
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