壺齋散人の 美術批評
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怪物たち:ボスの干草車



ボスの大作「干草車」には、怪物のイメージがたくさん登場する。一つは中央画面で干草車を引っ張っている怪物たち、もうひとつは地獄で跳梁している怪物たちである。

地獄に怪物のイメージは釣り合わぬことではないが、現世に釣り合うとは誰も思わぬ。だから、明らかに現生の出来事を描いている絵に怪物が登場したら、見ている者はわけがわからなくなるというものだ。

実際、ボスが偏愛した怪物のイメージは、何世紀にもわたってボスの解説者を悩ませてきた。あるものは、それは中世の人々が抱いていた偏見をボスが視覚的なイメージとして取り上げたのだといい、あるものはボスの型破りの想像力が作り上げたシュールなイメージなのだという。

筆者には何ともいえないが、ボスの個人的な資質に還元してしまうには、彼の描く怪物のイメージは、あまりにも実在感がある。彼等怪物たちは、ただ単にファンタスティックなのではなく、妙にリアリスティックでもあるのだ。ファンタスティックなだけなら、子どもでも描けるだろうが、そこにリアルな面があるとすれば、そのリアルさの起源というものがあるはずだ。

そこで筆者がとりあえず思い浮かべるのは、シェイクスピアの「テンペスト」に出てくるキャリバンというキャラクターだ。キャリバンはユートピアの島の原住民ということになっているが、その姿は人間ではなく、魚のような化け物として描かれている。彼は魚から四肢が生え出た魚人間ともいうべき怪物なのだ。この絵の中にいる魚の怪物だと思えばよい。

このことが暗示しているのは、こうした化け物のイメージはボスが勝手に作り上げたものというよりも、中世の民衆の中に生きていたイメージを取り出したのではないかということだ。

ティリアードがいうように、中世の民衆は彼らなりの世界像を持っていた。それは存在の連鎖と言い換えられるもので、この世界を、上は聖なるものから、我々人間界を経て、下は地獄のようなものまで、階層をなしているというイメージだ。そして階層の間をつなぐものとして天使がある。その天使は多層的なイメージを持っていて、人間界と天国との間では、羽の生えたあの肯定的なイメージとして、人間界と地獄との間では、醜悪な怪物としてのイメージを帯びる。天国は霊性に富んでいるから人間のイメージに近く(なぜなら人間にも霊性の幾分かはかかわりがあるから)、地獄は人間以下の存在としての獣性を帯びるというわけだろう。

この絵にある魚やネズミやモグラの化け物は、人間界と地獄との間を行ったり来たりしているメッセンジャーのようなものだと考えられる。その彼らが干草車を引いている。ということはこの車は地獄に向かって進んでいるのだ、ということをボスは表明していると考えられる。欲望を制御できぬものは、地獄に落ちる、という警告が、この絵には込められているわけである。





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