壺齋散人の 美術批評
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最後の審判:ボスの世界



最後の審判は、中世からルネサンスを生きていたヨーロッパの人々にとって、最大の関心事だった。なぜなら誰もがそれを免れることはできないからだ。誰もが、世界の週末に催される最後の審判の法廷に引き出され、そのものの信仰や行為の如何に応じて裁きを下される。神によって嘉された人々は天国に、神によって退けられた人々は地獄へ行く。それは誰もが逃れられないことなのだ。

しかし、最後の審判は、世界の終末になされることだ。いますぐに行われるわけではない。聖書にはそう書いてある。しかし、中世の人々にとっては、それが自分の死後すぐさま待ち受けている試練のように思われたのだ。しかも切実に。というのも、彼らにとって世界はまさに週末に向かって突き進んでいるように思われたからだ。彼らの住んでいる世界には、洪水や劫火といった自然の災厄や、疫病や戦争などが、それこそ暇もなく発生している。それは世界が終末に向かって突き進んでいることの証拠なのではないか、人々はそう考えたのである。

それ故人々は、最後の審判の結果自分を待ち構えている運命がどんなものなのか、真剣に知りたいと願った。最後の審判の様子が、画家たちによって繰り返し描かれたのは、こうした民衆の希求があったからだ。民衆は画家たちの描く地獄絵を見ることで、地獄の怖さを身に染みて感じ、自分こそは地獄に堕ちずにすむよう、十字を切り、心を引き締めたに違いないのだ。丁度中世の日本人たちが地獄絵を見ながら念仏を唱えたように。

ところで、ヨーロッパの絵画の伝統にあっては、最後の審判は、中心にキリストを置き、その周りに審判を待つ大勢の人々を描くのが主流だった。ミケランジェロがシスティナ礼拝堂に描いた「最後の審判」はその典型である。中央やや上部にミケランジェロ自身と思われるキリストの肖像が描かれ、そのまわりに400人以上の人々が裸体で突き従っている。いままさに、キリストによって、これらの人々に審判が下されようとしている様子がよくわかる。

ところが、ボスの描いた「最後の審判」は、それとはかなり異なっている。「干草車」と同様に、三連祭壇画として描かれたこの絵は、左翼に天国を、右翼に地獄を描いている天では「干草車」と同じ体裁を装っているが、中央画面がいささか変わっている。それは最後の審判そのものを強調しているというより、審判の結果、行いの悪かった人々が地獄に運ばれる途中に、責め苦を受けているシーンが中心になっている。

たしかに、中央画面の上部にはキリストが描かれており、その周りに天子や聖者そして祈りを捧げる人々が描かれてはいるが、その光景は審判を描いたというよりは、審判が終わった後の静謐さを描いていると受け取れる。つまり、中央画面は、これからなされるであろう審判や、まさに行われつつある審判を描いたのではなく、審判が終わった後の、人々の運命を描いていると受け取れるわけなのだ。

そういう視点から、この絵を見ると、まず左翼では、人類の祖先であるアダムとイブが神によって作られ、彼らが禁断を犯したことで、天使によって天国を追放されるところが描かれ、中央画面では、そのアダムとイブの子孫たちが、行いに応じて天国と地獄に振り分けられ、右翼では地獄の責め苦がこれでもかという具合に濃厚に描かれている、と解釈できる。

中央画面は、谷を舞台にしている。それは旧約聖書に出てくるヨシャパテの谷だといわれている。その谷の両側では様々な拷問の図が描かれ、谷には「干草車」の地獄に出てきたのと同じような橋がかかっている。右翼画面も含めて、地獄で展開されている光景は、ダンテの神曲にある地獄のイメージと共通するところが多いとされるが、ダンテも含めて中世の人々には一定の地獄のイメージがあったようで、ダンテもボスもそれにしたがって地獄のイメージを展開して見せたのではないか。

その地獄の原イメージともいえるものは、中世半ばころに盛んに書かれたという地獄の体験記というものに大いに感化されたところがあったようだ。たとえば12世紀の末に書かれた「トンダリのヴィジョン」という本は、死後地獄を遍歴して再び甦った男の話ということになっているが、そこで描かれた地獄の様々な責め苦の模様が、人々の想像力を強く刺激したことは大いにありうることだ。その本は各国語に翻訳されて、民衆の間で広く伝えられた。

だが、ボスの場合には、その地獄の拷問者として、彼一流の化け物やら怪物たちを持ち込んだ。こうした化け物たちは、地上と地獄とを媒介する反天使として、人間と動物とをミックスした形状に、ボスは描いた訳だが、其のグロテスクさは「干草車」よりかなり徹底的なものになっているといえる。

「干草車」に出てきた化け物は、せいぜい動物の頭に人間の手足の生えた程度に過ぎなかったが、ここで出てくる怪物は、頭から直接足が生えていたり、頭のかわりに巨大なナイフを乗せていたり、頭が駕籠だったりと、奇想天外ぶりが一段と進んでいる。

(板に油彩、中央部分163.7×127cm、両翼167×60cm、ウィーン美術アカデミー)





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