壺齋散人の 美術批評
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聖ウルスラの殉教:カラヴァッジオの世界




マルタ島を脱出したカラヴァッジオは、舟でシチリア島に向かった。シチリア島には、カラヴァッジオが若い時分に弟分として付き従っていたマリオ・ミンニーティがいたので、とりあえずかれを頼った。マリオはカラヴァッジオのために絵の注文を仲介したり、けっこうカラヴァッジオの面倒をみたようだ。シチリアでは、「聖ルチアの埋葬」とか「ラザロの復活」といった大作を描いている。

カラヴァッジオはシチリアには長居せず、かつて頼った手づるを再び頼って、ナポリを再訪した。1609年の秋ごろのことである。以後カラヴァッジオは翌年死ぬ直前までナポリにいた。かれが死んだのは1610年7月18日のことで、場所はトスカーナ地方の港町ポルト・エルコレだった。死因は熱病らしい。その前にカラヴァッジオは、マルタ騎士団の追っ手によって襲われ、重傷を負っており、身体が衰弱していた。その衰弱した身体に熱病が重なって、38歳という若さで死んだのである。

カラヴァッジオがポルト・エルコレで死んだのは、彼の荷物を積んだ船がそこに向かったときに、それを追いかけていったからだという。その荷物の中には、数点の絵が含まれていた。かれは恩赦の可能性を求めてローマに向かったのだが、途中行き違いがあって投獄されたりした。その間にかれの荷物を載せた船が北へ向かったので、それを追いかけてポルト・エルコレまで来たのである。カラヴァッジオらしい行動である。

二度目のナポリ滞在中の作品としては、「聖ウルスラの殉教」が代表的なものである。これはジェノヴァの有力者マルカントニオ・ドーリア公の注文を受けたもので、1610年の5月に完成している。カラヴァッジオ最晩年の作品である。

聖ウルスラは、1000人の乙女と共に巡礼の旅をしている最中、ケルンでフン族の王アッティラによって殺されたという聖女。この絵は、聖女ウルスラに向かってアッティラが放った矢が、聖女の胸に命中する瞬間を描いている。聖女はフン族の男たちに囲まれて、うつむいている。矢が胸にあたっても苦しみ驚く様子は見せない。その聖女の静謐な様子が、暗い背景から浮かび上がるところは、カラヴァッジオの到達点を示す出来といえよう。

(1610年 カンバスに油彩 154×178㎝ ナポリ、イタリア商業銀行)




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