ポール・ゴーギャンは、生涯に二度南洋の島タヒチに行った。一度目は、1891年から1993年にかけての二年間で、この時には、ヨーロッパの俗悪振りから解放されて、純粋な芸術を追及したいという目的が働いていた。二度目は1896年以降であって、この時は、ヨーロッパに絶望し、タヒチに骨を埋めるつもりで行った。実際ゴーギャンは二度とヨーロッパに戻ることはなかったのである。死んだのはタヒチではなく、マルキーズ諸島のヒヴォア島であったが、ヨーロッパからはるかに離れた南海の絶島で生涯を終えることは、ゴーギャンにとっては本望ではなかったかもしれないが、それでもヨーロッパで死ぬよりはましだと思ったことだろう。
上の自画像は、タヒチにわたることを決意する以前に描かれたもので、1889年の作品である。そのすこし前にアルルでのゴッホとの共同生活が破綻したことはよく知られている。ゴーギャンがタヒチ行きを決意するきっかけには、ゴッホとのことも働いていたかもしれない。ゴーギャンがゴッホとうまくいかなかった理由は、ゴッホにあるというより、ゴーギャンにあったといったほうがいいのではないか。ゴーギャンは傲慢で、とても一緒に暮らすのが楽しいといったタイプの人間ではなかった。彼はゴッホに対して辛く当たったが、どんな人間に対しても、やさしく付き合うことはできなかった。ヨーロッパの人間関係のノーハウをわきまえていなかったのだろう。そんな自分にとって、ヨーロッパには居場所が無い、とゴーギャンが思い込むのは、あながち妄想ともいえない。
この自画像には、頭の上に光輪が描かれている。頭に光輪を戴いているのは、聖母子とか天使の類だけだ。ゴーギャンはまさか自分をキリストだとは、この時点では思っていなかっただろうが、芸術の天使だくらいには思っていただろう。そこで自分の頭上に光輪を浮かべることで、俺こそ芸術の天使なのだ、と主張したかったのだろう。
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