壺齋散人の 美術批評
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ふくれつら(Te Faaturuma):ゴーギャン、タヒチの夢





「ふくれつら(Te Faaturuma)」と題したこの絵のモデルは、「花を持つ女」と同じ女性と思われる。ノアノアによれば、ある日隣人の女がゴーギャンの小屋にやってきて、絵を見せてくれと言った。そこでゴーギャンはマネのオランピアの複製を見せてやったところ、彼女は特別な関心を以てそれを眺めながら、「これはあなたの奥さんか」と聞いた。ゴーギャンはそうだと嘘を言ったが、そのことにいくばくかの疚しさを感じながらも、その女の表情をスケッチする誘惑に駆られた。すると女は「ダメ」と言って去ってしまった。ゴーギャンはがっかりしたのだったが、一時間後にその女が着飾って舞い戻り、ゴーギャンのためにポーズを取ってくれた。それが「花を持つ女」だ。

この絵は、ゴーギャンの小屋にやって来た女が、オランピアの複製を見ているところを描いているのではないか。絵の中にそれが出てこないので、俄にはそうは受け取れないが、話の流れのなかに置きなおしてみると、そう見えないこともない。彼女がふくれつらをしているように見えるのは、オランピアが不思議だったからではないか。なにしろ白人の女が裸でベッドの上に横たわってこちらを向き、その背後には黒人の女が立っているわけだから。そんな眺めはタヒチではあり得ないことだ。そのあり得なさの感覚が、純真な彼女の表情をこのようにしてしまったのではないか。

小屋の床の上に女が胡坐をかいて座り、左腕で顔を支えながら、前方にある何かに見とれている。画面の上からは、とりあえず彼女の前に置かれた果物を見ているようにも見えるが、その先に、つまり画面の手前に、別のもの、つまりオランピアの絵があってもおかしくはない。

女の座っている床は暖色のオレンジで塗られ、その背後に寒色系の背景が広がる。その背景の中には、驢馬に乗った男と一匹の犬が描かれているが、ふくれつらの女とは違って、彼らには表情がない。背景に表情があっては、絵に締りがなくなるからだろう。



これはふくれつらの女の部分を拡大したもの。顔の造作やヘアスタイルが、「花を持つ女」との同一性を感じさせる。花を持つ女が意思の強さのような精神性を強く感じさせるのに対して、この女がふくれつらに見えるのは、ものごとに(この場合には絵をみることに)熱中しているからだと思われる。(カンヴァスに油彩 91.2×68.7cm マサチュセッツ ウースター美術館)





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