壺齋散人の 美術批評
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結婚:ゴヤの版画「妄」



(結婚の妄)

この絵は、男女が背中合わせにくっついていることから、「結婚の妄」と呼ばれるようになったが、それはゴヤ自身の指示によるものではない。この題名で納得するためには、不具合な要素が多い。

まず、男が両腕を伸ばして目の前にいるものたちになにかを訴えかけているが、そのしぐさは相手を呪っているように見える。男が結婚を後悔しているのであれば、呪うべき相手を間違えているといえよう。

男女をとりかこむ連中の中には、動物の姿をしたものもいる。ゴヤの場合、動物の姿に変えられた人間は邪悪の象徴である。

この絵が邪悪さと関連があることは指摘できるのではないか。少なくとも、「きまぐれ」第75番の作品「我々を解放してくれるものはいないのか」と同じく、結婚の束縛から逃れようとしているとする通説は再検討すべきだといえよう。


(女を誘拐する馬)

馬に変身した男が女に惚れて、その亭主を殺して女を奪い去るという物語がゴヤの時代に流布していて、この絵は、それを視覚化したというのが通説である。この説は、この絵の下書きに、殺された男が馬の足元に横たわっているさまが描かれていたことを、補強材料にしている。

完成作品のなかでは、そうした背景は省略されて、馬が女を誘拐する場面として単純化されている。そうすると馬は、純粋に情念の化身というような具合に見えてくる。

ゴヤの場合、人間から動物への変身は、邪悪さへの懲罰として捉えられるのが普通だが、この絵の場合には、情念のほとばしりが物象化したものとなっている。





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