壺齋散人の 美術批評
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吸血鬼:ムンクの不安





「吸血鬼」と題したこの絵のモチーフは、男の血を吸う女である。この絵は一見すると、女が男を抱擁しているように見えるのだが、実はそうではなく、女が男の首筋に歯を立てて、男の血を吸っているのである。

男の血を吸ったり、あるいは男の首を刎ねたりする女のイメージは、十九世紀末のヨーロッパで大いに流行していた。聖書のユーディット伝説を踏まえた、男を去勢する女のイメージは、中世以来のヨーロッパの文化的伝統の一つであったが、十九世紀末になると、それにサロメの首切り伝説や、ファム・ファタールの新しい物語が加わって、女による男の去勢あるいは殺害が、人々の興味をかきたてたのであった。

ムンクの場合には、これに加えて個人的な事情もあったようだ。ムンクを囲む芸術家の間には、女は本来吸血鬼のようなもので、男の勢力をしぼりとって生きている、という考え方が流行していたようなのである。彼らがどのようなわけでそのような考え方をするようになったのか、それはわからない。だが、この絵の中には、そうした女に対する男の警戒心のようなものが反映されているようである。

女が、自分の胸元に抱きついた男を、両腕で抱え込み、男の首筋に歯を立てている。その表情には残虐な意図は感じられないし、男の姿にも恐怖や苦痛の色は見えない。あたかも、女に血を吸い取られることが自分の運命だと達観している風情がうかがわれる。テーマと画面とが、かららずしも一致していないようにも見える。

色彩は、暗い暖色が基調になっていて、あたかもこれから流される血を暗示しているようだ。画面そのものには、まだ血の気配はない。



これは、同じテーマを木版画で表現したもの。前景(人物)、中景、背景の三つに画面分割され、それぞれの境界を薄い曲線でくぎっている。画面の三分割は、上の油彩画にも認めることができる。

(1893年 カンヴァスに油彩 80.5×100.5cm イェーテボリ美術館)




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