壺齋散人の 美術批評
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デューラーの母




この絵は、1490年に描いた両親像のうちの、母親のほうである。(板に油彩、47×38cm、ニュルンベルグ、国立美術館)

やはりネーデルラント肖像画の伝統に従って、顔と手が強調されて描かれている。頭部を覆う白い被り物は、恰も顔の延長のようだ。その顔には、どこか愁いのような雰囲気が漂っている。それは彼女の生きてきた人生の過酷さを物語っているのかもしれない。

というのも、この時の彼女はまだ34歳の若さだったにもかかわらず、すでに17人の子どもを産んでいた。この直後には18人目の子どもを産むのだが、それらの子どものうち成人したのは、デューラーを含めてたったの三人だったのである。それ故彼女は、子を産んでは失うという、悲しい目にずっとあってきたわけなのである。そのような悲しみが、こうした絵からも自然と滲み出してくるのではないか。

その母親は、1502年に夫を失って以来、更に深い悲しみに沈むようになり、また健康状態も悪くなった。その病気が、18回の出産で消耗した彼女の体を更に消耗させた。1514年、彼女はついに死の床についたのである。そんな彼女の最後の姿を、デューラーは素描した。次の絵がそれである。(紙に木炭、42.1×30.3cm、ベルリン、国立美術館)



自分を産んでくれた一人の女性を、いささかも理想化することなく、醜悪さを感じさせることもいとわずに、赤裸々に描いたこの絵は、肖像画というもののひとつのピークを示すものだろう。人間の内面をこのように表現した絵としては、ゴッホの、あの悲しみにうちひしがれた裸の娼婦の絵が思い浮かぶくらいだ。

デューラーは自分の母親について、次のように書いている。

「母が発病した上記の日から一年余り経ったある火曜日、即ちキリスト降誕より数えて1514年5月17日の夜の二時間前に、わが信仰深き母バルバラ・デューラー夫人はすべての聖体を受け、教皇の力で一切の苦痛と罪障から解き放たれて、キリスト者として世を去った。彼女は予め私にも祝福を与え、私が罪障から守られてあるよう、極めて美しい教えを以て私に神の平安のあるよう願った。彼女はまた前もって聖ヨハネの祝福酒を求めてそれを飲んだ。母は死神をひどく恐れていたが、神の御前に行くことは怖くないといった。彼女はたいそう苦しんで死んだ。そして私は彼女が何か恐ろしいものを見たのに気付いた。何故なら彼女は、それまで、長らく何も言わないでいたのに、急に聖水を求めたからである。こうして彼女の目が霞んだ。私はまた死神が彼女の心臓に二突き大きな打撃を加え、彼女が口と両目を閉じ、苦痛を以てこと切れるのを見た。私は母の前で祈祷文を朗誦した。その時私は口には表し得ないような苦しみを覚えた。神よ、彼女に恩寵を垂れ給え」(「覚書」前川誠郎訳)





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