壺齋散人の 美術批評
HOME ブログ本館 | 東京を描く 水彩画 日本の美術 プロフィール 掲示板


アンドレア・デル・サルト:ルネサンス美術




アンドレア・デル・サルト(Andrea del Sarto 1486-1531)は、フィレンツェ派の最後の巨匠であり、その弟子からはマニエリスムの画家を多く輩出した。自分自身もマニエリスムへの移行を用意したと評価される。後期ルネサンスを代表する画家の一人である。

父親が仕立て屋だったことから、仕立て屋を意味する言葉サルトを綽名として呼ばれたが、本名はアンドレア・ディアグノーロといった。幼少時代にギアン・バリレに学び、後にピエロ・デ・コジモに師事した。最初の大きな仕事は、スカルツォ修道院の回廊を飾るフレスコ画。これを受注したのは1509年で、23歳の時だったから、若い頃から画家としての名声が上がっていたのであろう。このフレスコ画は十六点完成され、画家としてのサルトの出発点となった。

アンドレア・デル・サルトはついで、サンティッシマ・アヌンツィアータ教会のために七点のフレスコ画を制作した。聖人フィリッポ・ベニッツィの生涯をテーマにしたものである。

アンドレア・デル・サルトの前半期の代表作とされるのは、「アルピエの聖母」。フィレンツェのサン・フランチェスコ・デイ・マッチ教会からの注文である。聖母が乗っている台座の側面に半人半鳥の怪物アルピエのレリーフがあることから、アルピエの聖母と呼ばれた。暖色を多用し、明暗を強調して、インパクトの強い作品になっている。(1517年 板に油彩 208×178㎝ フィレンツェ、ウフィチ美術館)

この翌年、アンドレア・デル・サルトはフランス王フランソワ一世に招かれフォンテンブローに赴いた。しかしサルトは絵の制作を求められることはなく、そのかわりにフィレンツェで名高い絵を買い付けるように依頼された。画家としてではなく、画商としての役割を期待されたサルトは自尊心を傷つけられ、フランス王から預かった金を、自分の家を建てることに費やしたという噂がある。



アンドレア・デル・サルトは夥しい数の聖母子像を描いた。それだけ需要が高かったのだろう。聖母マリアをテーマにした作品のうちで、最も名高いのは「聖母被昇天」である。これにも「バッセリーニの聖母被昇天」をはじめいくつかの作品があるが、ここに掲げたのは「四人の聖者に見送られる聖母」。1530年、つまり死の年の作品である。(板に油彩 フィレンツェ、パラティーノ美術館)



これは、「最後の晩餐」。アンドレア・デル・サルトの代表作の一つで、フィレンツェ郊外サン・サルヴィ修道院の食堂の壁に描かれたもの。最後の晩餐をモチーフにしたフレスコ画は、教会の食堂に描かれることが多かった。サルトのこの作品は、ダ・ヴィンチやアンドレア・デル・カスターニョの作品と並んで有名なものだ。(1527年 フレスコ画 462×872㎝)





HOME ルネサンス美術 次へ









作者:壺齋散人(引地博信) All Rights Reserved (C) 2011-2019
このサイトは、作者のブログ「壺齋閑話」の一部を編集したものである