壺齋散人の 美術批評 |
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夏、習作:ルノワール |
パリのパティニュール大通りにあるカフェ、ゲルボアに、マネを中心とした一団の芸術家が1966年頃から集まるようになった。ルノワールもそのサークルに加わった。常連客には、エミール・ゾラやザカリー・アストリュックといった文学者のほかに、バジール、ドガ、ファンタン・ラトゥールなどがいて、やがてセザンヌやモネも加わった。ルノワールは、モネと大いに仲よくした。 このサークルのことを、「パティニュール派」と命名した批評家もいた。画風が共通すると言うよりは、既成の芸術への抵抗をそこに読み取ったということらしい。この名称は定着しなかったが、やがて彼らのなかから印象派の動きが表面化していくわけである。 この当時、ルノワールはあいかわらず貧乏で、肖像画を描いて収入源にしていたが、そのかたわら愛人のリーズをモデルにして多くの絵を描いた。上の作品「夏、習作(En été)」はその一点。習作と題してはいるが、一応完成しており、1868年のサロンにも展示された。古典的な手法を感じさせるこの作品は、あたりさわりのなさで、かえって会場での評判は悪くなかったが、入選するまでにはいたらなかった。 だが、翌々年1870年には、やはりリーズを描いた作品「アルジェの女」がサロンに入選した。この時期のルノワールは、それなりに世間から高く評価されていたのである。その「アルジェの女」はエクゾティックな作風で、ドラクロワを強く意識しているように見える。 なお、リーズは、やはりアルジェ風に装った女のモデルになったが、その作品「アルジェ風に装うパリの女たち」を最後に、ルノワールの世界から去った。彼女は、1872年4月に、ある建築家と結婚したのである。 (1868年 カンバスに油彩 85×59㎝ ベルリン、国立美術館) |
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