壺齋散人の 美術批評
HOME ブログ本館 | 東京を描く 水彩画 日本の美術 プロフィール BBS


フィンセント・ファン・ゴッホ:炎の画家
代表作の鑑賞と解説


フィンセント・ファン・ゴッホ(Vincent Willem van Gogh 1853-1890)は、日本では「炎の画家」と呼ばれている。その画風や色彩が炎のような激しさを感じさせるからだろう。しかし色彩という点ではポール・ゴーギャンのほうが激しい。ゴーギャンは暖色系の原色を駆使して絢爛たる色彩世界を現出した。これにシンプルな構図が相まって、ヨーロッパの絵画史上例を見ないような世界を作り上げた。ゴーギャン以降の画家でゴーギャンの影響を受けなかったものはいないと言ってよいほど、その後の西洋絵画に深刻に働きかけた。

それに対してフィンセント・ファン・ゴッホのほうは、一見して派手に見える色彩も、ブルーやグリーンなどの寒色を多用していることに気づかされるように、色彩としてはゴーギャンよりずっと穏やかな色使いである。ゴッホの絵が炎を思わせるような激しさを印象づけるのは、筆の使い方にあると思われる。筆先を叩きつけるようにラフなタッチで描いていることから、画面に荒々しさが醸し出され、それが炎のような激しさを連想させるのではないか。

フィンセント・ファン・ゴッホが、この炎のように激しい絵を描くようになるのは、主に南仏アルルに移動した晩年のことである。ゴッホがアルルに移ったのは1888年2月のことで、満34歳になる直前だった。それから1890年の7月に37歳で死ぬまでのわずか二年半の間に、今日ゴッホの傑作と称される作品群が生み出された。この時期、最も脂の乗っていた時には月に平均10点を超すという多作ぶりで、精力的に制作した。

フィンセント・ファン・ゴッホが南仏に移った主な理由は、日本の浮世絵のようにシンプルで明るい色彩の絵を描きたいということだった。ゴッホにとっては浮世絵こそが自分の絵の理想だったのである。南仏の太陽はそんなゴッホの希望に応えた。明るい太陽の光が注ぐ南仏の景物やエキゾチックな雰囲気の人物に、ゴッホは旺盛な創作意欲を掻き立てられた。

フィンセント・ファン・ゴッホは、芸術の同志と考えていたポール・ゴーギャンをアルルに呼び寄せた。ゴーギャンは1888年の10月にアルルにやって来てゴッホとの共同生活に入るが、たった二か月で破綻した。その理由は色々言われているが、精神に不安定なところがあるゴッホと、傍若無人で傲慢なゴーギャンとでは、うまくいかない運命にあったというのが大方の解釈である。

フィンセント・ファン・ゴッホは有名な耳切り事件などを起こして周囲の住民に気味悪がられ、ついに住民の要望を受けた市長によって監禁されてしまった。更にサン・レミの精神病院に入れられてしまう。

精神病院を出たゴッホは、翌1890年の5月にサン・レミを去ってパリに舞い戻り、さらにオーヴェール・シュル・オワーズに移る。そして同年の7月27日にピストル自殺を図り、翌々日に死亡した。この自殺については、さまざまな憶測が飛んでおり、中には他殺説などもあって、いまだに真相はわかっていない。偉大な画家としては、残念な死にかただったといわねばなるまい。

ここではそんなフィンセント・ファン・ゴッホの画業のうち、アルル時代以降の晩年の、「炎の画家」と呼ばれるに相応しい、情熱的で輝かしい作品群(代表作)を取り上げて、鑑賞のうえ適宜解説・批評を加えたいと思う。


黄色い家:アルルのゴッホ

アルルのはね橋:炎の画家ゴッホ


収穫:炎の画家ゴッホ

プロヴァンスの積みわら:炎の画家ゴッホ

ムスメ:炎の画家ゴッホ

ズアヴ:炎の画家ゴッホ

夜のカフェテラス:炎の画家ゴッホ

夜のカフェ:炎の画家ゴッホ

ミリエ少尉:炎の画家ゴッホ

フィンセントの寝室:炎の画家ゴッホ

ジヌー夫人:炎の画家ゴッホ

フィンセントの椅子:炎の画家ゴッホ

ゴーギャンの椅子:炎の画家ゴッホ

ひまわり:炎の画家ゴッホ

ジョゼフ・ルーラン:炎の画家ゴッホ

子守:炎の画家ゴッホ

星月夜:炎の画家ゴッホ

糸杉:炎の画家ゴッホ

花咲く巴旦杏の枝:炎の画家ゴッホ

アイリスの花瓶:炎の画家ゴッホ

わらぶきの農家:炎の画家ゴッホ

星月夜と糸杉の道:炎の画家ゴッホ

オーヴェールの教会:炎の画家ゴッホ

ガシェ博士の肖像:炎の画家ゴッホ

カラスの飛ぶ麦畑:炎の画家ゴッホ


HOME









作者:壺齋散人(引地博信) All Rights Reserved (C) 2011-2018
このサイトは、作者のブログ「壺齋閑話」の一部を編集したものである