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スーラの点描画


ジョルジュ・スーラ(Georges Seurat 1859-1891)は、31歳の若さで死んだ。したがって彼の画家としての実質的な活動期間は10年にも満たなかったが、美術史上には大きな足跡を残した。彼が若い画家として登場した1880年代は、印象派の円熟期であり、次の時代への鼓動がそろそろ聞かれた時代であった。そうした時代背景にあってスーラは、印象派の次の世代を担うチャンピオンの一人として名声を確立したのだった。

スーラが「グランドジャット島」を制作したのは25歳の時である。スーラ独自の手法である点描法を駆使したこの作品を完成させてから死ぬまでのわずか数年の間が、彼の画家としての本格的な活動期である。この短い期間にスーラは、実験的な作品を含め、数々の作品を送り出した。

印象派の次の時代の画風を新印象派と呼ぶこともあるが、一言で新印象派と言っても、統一した画風が認められるわけではない。セザンヌのような非常に理知的な画風もあれば、ゴッホやゴーギャンのように色彩を重んじた感性的な画風もある。そういう中にあってスーラの画風は、点描画と言われる。点描画と言うのは、色彩を重んじる立場に立ちながら、その色彩を点描によって表現する画風である。点描と言うのは、色彩の最小単位を点によって表現し、その点の集まりによって色彩の面的な広がりを表現するものである。したがってそこには、色彩についての確固とした理論的な分析が介在している。つまり、かなり理知的な画法なわけである。

スーラは若い頃から色彩についての科学的な理論に関心をもち、その理論を絵画の実践にも応用したいと考えた。彼の点描画は、その応用の試行錯誤の中から生まれたものである。

それまでの画家は、パレットの上で絵具を混色したうえでキャンバスに定着させていた。この方法によると、色彩はややもすれば彩度を失いがちになる。色彩の理論からすれば、原色がもっとも彩度が高く、次に二つの原色を混ぜた二次色となり、三つの原色を混ぜた色や、それ以上の二次色を混ぜた色はどうしても彩度が低くなってゆく。ところがすばらしい絵というものは、例外なく彩度が高い。したがって画家は、いかにして彩度を高く保ちながら、色彩を表現するかについて意識的にならねばならない。そうスーラは考えたのである。

点描法というのは、なるべく彩度の高い色をそのまま画面に定着させることによって、それらの色が画面上で関わり合いまじりあいながら、あたかも混色と同じような効果を醸し出すようにする技術のことである。個々の色は彩度が高いままに、隣の色と視覚的にまじりあって第三の色を表現する。そのことによって、パレット上での混色とは異なり、彩度の高いままでさまざまな色のバリエーションを表現することができる。

スーラが実践上用いた色は、わずか十一色だったという。それらの色を点描法で画面に定着させることで、非常に彩度の高い画面を演出することができた。だが一つだけスーラの予期しないことが起きた。顔料の褪色である。絵具の色の原料である顔料の中には、耐光性の高いものと低いものとがある。それらを隣り合わせて塗ると、耐光性の高い含量はいつまでも彩度を高く保つのに対して、耐光性の低い含量、とくにマゼンタとかオレンジは色が褪せて黒く変色することがある。そうなると、画面全体が台無しになる。スーラはそんな事情も勘定に入れながら、色彩表現の実践に取り組んだ。

若いスーラの周囲には、多くの画家が集まってきた。その中にはすでに50歳を過ぎていたピサロもいた。彼らはスーラの点描画に、新しい時代の絵画表現の王道を期待したのである。しかしその運動は広がりを持つことはなく、スーラの死とともにしぼんでいった。そういう意味ではスーラは、死ぬのが早すぎたと言えなくもない。

ここではスーラの代表作について鑑賞してみたい。



アニエールの水浴:スーラの最初の大作
ラ・グランド・ジャット島の日曜日:スーラの点描画
オック岬:スーラの点描画
バ・ビュタンの浜:スーラの点描画
オンフルールの夕暮:スーラの点描画
オンフルールのマリア号:スーラの点描画
グランド・ジャット辺のセーヌ川:スーラの点描画
ポーズする女たち:スーラの点描画
ポーズする女たちの習作:スーラの点描画
サーカスのパレード:スーラの点描画
曇天のグランド・ジャット島:スーラの点描画
ポール・アン・ベッサン:スーラの点描画
ポール・アン・ベッサンの港:スーラの点描画
化粧する若い女:スーラの点描画
シャユ踊り:スーラの点描画
グラヴリーヌの運河:スーラの点描画
サーカス:スーラの点描画



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