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ポール・ゴーギャン:タヒチの夢 作品の鑑賞と解説


ポール・ゴーギャン(Eugène Henri Paul Gauguin 1848-1903)は、ヴィンセント・ヴァン・ゴッホとともに、印象派と二十世紀の現代絵画を橋渡しする存在である。肝をつぶすような大胆な構図、眩暈を覚えさせるような鮮烈な色彩は、かれら以前の西洋美術にはなかったものだ。かれらはそうした斬新さを、自らの孤独な努力から作りあげた。しかも生前他人から理解されることがなかった。彼らのような時代を超越した偉大な芸術家たちは、普通の人間の理解をも超えているのだろう。

ポール・ゴーギャンは、生涯に二度南洋の島タヒチに行った。一度目は、1891年から1993年にかけての二年間で、この時には、ヨーロッパの俗悪振りから解放されて、純粋な芸術を追及したいという目的が働いていた。二度目は1896年以降であって、この時は、ヨーロッパに絶望し、タヒチに骨を埋めるつもりで行った。実際ゴーギャンは二度とヨーロッパに戻ることはなかったのである。死んだのはタヒチではなく、マルキーズ諸島のヒヴォア島であったが、ヨーロッパからはるかに離れた南海の絶島で生涯を終えることは、ゴーギャンにとっては本望ではなかったかもしれないが、それでもヨーロッパで死ぬよりはましだと思ったことだろう。

上の自画像は、タヒチにわたることを決意する以前に描かれたもので、1889年の作品である。そのすこし前にアルルでのゴッホとの共同生活が破綻したことはよく知られている。ゴーギャンがタヒチ行きを決意するきっかけには、ゴッホとのことも働いていたかもしれない。ゴーギャンがゴッホとうまくいかなかった理由は、ゴッホにあるというより、ゴーギャンにあったといったほうがいいのではないか。ゴーギャンは傲慢で、とても一緒に暮らすのが楽しいといったタイプの人間ではなかった。彼はゴッホに対して辛く当たったが、どんな人間に対しても、やさしく付き合うことはできなかった。ヨーロッパの人間関係のノーハウをわきまえていなかったのだろう。そんな自分にとって、ヨーロッパには居場所が無い、とゴーギャンが思い込むのは、あながち妄想ともいえない。

この自画像には、頭の上に光輪が描かれている。頭に光輪を戴いているのは、聖母子とか天使の類だけだ。ゴーギャンはまさか自分をキリストだとは、この時点では思っていなかっただろうが、芸術の天使だくらいには思っていただろう。そこで自分の頭上に光輪を浮かべることで、俺こそ芸術の天使なのだ、と主張したかったのだろう。

右の絵は、二度目のタヒチ滞在のしょっぱなの時期に描かれた自画像である。この絵の中のゴーギャンは、光輪こそ戴いていないが、いかにも宗教の教祖のような雰囲気をたたえている。ゴーギャンはおそらくこの絵によって、俺はキリストだ、と訴えているのだろう。骨をタヒチに埋める気になったゴーギャンは、ただの滞在者ではなく、タヒチの人間にとって掛買いの無い人間であるのだ、俺は、と言いたかったに違いないのである。

ポール・ゴーギャンは、1893年にヨーロッパに一時帰還しているが、その主な目的は、タヒチで描き溜めた絵をヨーロッパで公開し、自分に相応しい名誉と金を得たいということだった。しかしその希望は無残に打ち砕かれた。彼の絵を褒めてくれるものは、一部の変わり者だけだったし、絵はまったくと言ってよいほど売れなかった。そんなわけですっかり意気消沈したゴーギャンは、ヨーロッパにはもはや何の意味もないと思いつめるに至った。無理も無いことといえよう。それ故彼は、二度と帰らぬつもりで、財産の一切合財を売り払い、家族との永遠の別れを決意し、再びタヒチに逃避したのだった。

そんなポール・ゴーギャンにも、画家としての名声がわきあがる時期が来た。しかし、それはゴーギャンが死ぬ直前だった。名声があがったことは、南洋の絶島にいるゴーギャンにとってほとんど意味がなかった。作品が売れるようになって、その金が入るようになったのは、ゴーギャンにとって好都合だったが、いまさら金に何の意味があるというのか。天涯孤独の身になったゴーギャンにとっては、金も名声ももはや何の意味をもたなくなっていた。ゴーギャンは、人生最後の日々を、つまらぬトラブルで消耗しながら、死に向かって生きていたような状態だった。傲岸不遜なゴーギャンは、たとえ南洋の絶島のようなところにいても、たえずトラブルを巻き起こさずにはすまなかったのだ。

このように、ポール・ゴーギャンは、人間としては鼻持ちならない男だったが、芸術家としては、後世に偉大な影響を及ぼした。20世紀の芸術は、ポール・ゴーギャンなしでは考えられない。ピカソもマティスも、またシャガールもゴーギャンの申し子といってよい。色彩については言うに及ばず、フォルムについても、その独特の単純さが、かえって無限のインスピレーションを見ているものに及ぼした。そのインスピレーションが20世紀の芸術を駆動してきたのであり、ゴーギャンこそはそのインスピレーションの源であったわけだ。

ここではそんなポール・ゴーギャンの夥しい作品のうちから、タヒチ時代の色彩鮮やかなものをいくつか紹介し、鑑賞のうえ適宜解説・批評を加えたいと思う。


花を持つ女(Vahine no te tiare):ゴーギャン、タヒチの夢

ふくれつら(Te Faaturuma):ゴーギャン、タヒチの夢

マリアを拝す(Ia Orana Maria):ゴーギャン、タヒチの夢

噂話(Les Parau Parau):ゴーギャン、タヒチの夢

砂浜のタヒチの女たち:ゴーギャン、タヒチの夢

変りはないの(Parau Api):ゴーギャン、タヒチの夢

マンゴーを持つ女(Vahine no te vi):ゴーギャン、タヒチの夢

市場にて(Ta Matete):ゴーギャン、タヒチの夢

気晴らし(Arearea):ゴーギャン、タヒチの夢

いつ結婚するの(NAFEA Faa ipoipo):ゴーギャン、タヒチの夢

テハマナの先祖たち(Merahi metua no Tehamana):ゴーギャン、タヒチの夢

死霊が見ている(Manao tupapau):ゴーギャン、タヒチの夢

悪魔の言葉(Parau na te Varua ino):ゴーギャン、タヒチの夢

海辺にて(Fatata te Miti):ゴーギャン、タヒチの夢

かぐわしき大地(TE NAVE NAVE FENUA):ゴーギャン、タヒチの夢

タヒチ牧歌(Pastorales Tahitiennes):ゴーギャン、タヒチの夢

その名はヴァイラウマティ(Vairaumati tei oa):ゴーギャン、タヒチの夢

月と大地(Hina Te Fatou):ゴーギャン、タヒチの夢

なぜ怒っているの(No te aha oe riri):ゴーギャン、タヒチの夢

無為(Eiaha Ohipa):ゴーギャン、タヒチの夢

王族の女(Te arii vahine):ゴーギャン、タヒチの夢

神の子の誕生(TE TAMARI NO ATUA):ゴーギャン、タヒチの夢

ネヴァーモア(Nevermore):ゴーギャン、タヒチの夢

かぐわしき日々(Nave Nave Mahana):ゴーギャン、タヒチの夢

我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々は何処へ行くのか:ゴーギャン、タヒチの夢

白い馬:ゴーギャン、タヒチの夢

マンゴーの花を持つ二人のタヒチ女:ゴーギャン、タヒチの夢


三人のタヒチ人:ゴーギャン、タヒチの夢

タヒチ牧歌:ゴーギャン、タヒチの夢

浅瀬:ゴーギャン、タヒチの夢

浜辺の騎手:ゴーギャン、タヒチの夢

団扇を持つ若い女:ゴーギャン、タヒチの夢

呼び声:ゴーギャン、タヒチの夢

ヒヴォアの魔法使い(Le Sorcier d'Hiva Oa):ゴーギャン、タヒチの夢

未開の物語(Contes barbares):ゴーギャン、タヒチの夢



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