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ゴヤ 西洋美術史上最高の芸術家


フランシスコ・デ・ゴヤ(Francisco José de Goya 1746-1828)は、スペインが生んだもっとも偉大な画家であるばかりか、西洋美術史上最高の芸術家の一人である。ゴヤが活躍した時代は西洋美術の歴史上はバロックに続く時代であり、フランスなどではロココ美術が盛んだったが、ゴヤはどんな流派にも属さず、ユニークな活動をしていた。それゆえ孤高な画家と言ってもよいが、その孤高さは、西洋美術の世界にひときわ高く君臨する巨匠という風格のものである。

ゴヤは比較的若くして(40歳の時)国王付きの画家となり、王室をとりまく貴顕紳士たちと付き合ったりしたので、宮廷画家といわれることもある。宮廷画家と言えば、王族や貴族たちの肖像を描くことが主な仕事であるが、ゴヤはそうした仕事にとどまらず、自分自身の楽しみのためにも絵を制作した。ゴヤの仕事は、宮廷画家として王族や貴族たちの肖像画を描いたものと、自分自身のために世の中の風俗を批判的な目で描いた作品とに区分けすることができる。傑作と呼ばれる作品は、後者に属するものが多い。有名な「マハ」の二点は、時の宰相ゴドイの依頼を受けたもので、その意味では、宮廷画家としての作品ともいえるが、モチーフそのものは、当時のスペインの風俗の一部をなしていた伊達女に取材しており、その意味では、自分自身の楽しみを盛り込んだものであった。

ゴヤはもともと自由主義的な考えをもっており、そのことで、ナポレオンのスペイン統治にはたいした抵抗をしなかった。むしろ、ナポレオンがスペインの古い因習を破壊することに拍手喝采したくらいである。そんなこともあり、スペインに王政が復活したときには、事実上フランスへの亡命を迫られたほどである。

1792年、ゴヤは46歳にして聴覚を失うという試練に見舞われた。その時を境にして、ゴヤの画風はかなり変わった。それ以前は、文字通り宮廷画家として、王族や貴顕紳士の肖像画を伝統的な様式で描いていたのだったが、これ以降は、同時代のスペインの民衆の風俗を批判的な目で描くようになった。ゴヤの批判意識がもっとも明確に現れているのは、「民衆の気晴らし」をはじめとする版画であるが、油彩画の分野においても、「鰯の埋葬」以下スペインの風俗を批判した作品を描くようになる。かれのそうした批判意識の仕上げが、「黒い絵」のシリーズである。

ゴヤはもともと自由主義的だったといったが、ナポレオン統治下には、日和見的な態度をとった。やはりスペイン人の愛国心を逆なでするような真似はできないと思ったからだ。しかし、ナポレオンによるスペイン王政をたたえるような作品「マドリード市のアレゴリ」を描いたりした。一方で、ナポレオンが敗北した後は、ナポレオンに抵抗するスペイン民衆をモチーフにした作品「1808年5月3日など」を描いてもいる。

スペイン王政が復活すると、ゴヤは居心地の悪さを感じたであろう。「マハ」の絵に関して宗教裁判所への出頭を命じられてもいる。そんなわけで、晩年はなるべく目立たないようにふるまい、もっぱら自宅の壁のために「黒い絵」の制作に没頭した。そして1824年、78歳のときに、事実上フランスへ亡命した。それ以後ボルドーに住み、82歳にしてその地で没した。

ここではそんなゴヤの画業を紹介しながら、適宜解説・批評を加えたい。なお、版画作品と「黒い絵」のシリーズについては、別途項目を設けて紹介する。


フロリダブランカ伯爵の肖像 ゴヤの肖像画

マヌエル・オソーリオ・マンリケ・デ・スニガ ゴヤの肖像画

サン・イシードロの牧場:ゴヤの風景画

竹馬 ゴヤの装飾画(タペストリー下絵)

狂人のいる庭 ゴヤの風俗画

魔女の夜宴 ゴヤの怪異画

魔女の飛翔 ゴヤの怪異画

アルバ公爵夫人:ゴヤの肖像画

カルロス四世とその家族 ゴヤの肖像画

裸のマハ ゴヤの裸体画

着衣のマハ ゴヤの肖像画

バルコニーのマハたち ゴヤの群像画

マハとセレスティーナ ゴヤの風俗画

イサベル・デ・ポルセール ゴヤの肖像画

ゴヤ「マドリード市の寓意」 歴史に翻弄された絵

巨人 ゴヤの寓意画

鰯の埋葬 ゴヤの風俗画

むち打ち苦行者の行進 ゴヤの風刺画

異端審問 ゴヤの風刺画

狂人の家 ゴヤの風刺画

1808年5月2日 ゴヤの戦争画

1808年5月3日 ゴヤの戦争画

アリエータ医師に看護されるゴヤ

闘牛 ゴヤの風俗画

ボルドーの乳売り娘 ゴヤの肖像画



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