壺齋散人の美術批評 |
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ドーミエの風刺版画:主要作品の鑑賞と解説 |
オノレ・ドーミエ(Honoré-Victorin Daumier 1808-1879)は、芸術家というよりジャーナリストとして自認していた。彼はそのジャーナリスト精神を、石版画という形で表現した。ドーミエが登場したのは七月革命後のフランスであったが、七月革命後(1830年代)のフランスは、ジャーナリズムが勃興した時代だった。新聞を中核としたメディが、彼にとって格好の舞台を提供した。彼は、新聞や雑誌に同時代を風刺するさまざまな石版画を発表し、一躍時代の精神を代表する人物になったのだった。 |
ドーミエについては、あの風変わりな芸術家ボードレールが、かれとしてはめずらしく、率直にドーミエの才能及びその影響力を評価している。ボードレールは「フランスの風刺画家たち」と題した美術評論の中で、ドーミエについて次のように言及している。「今や私は、もっとも重要な人物、単に風刺画にとってだけでなく、毎朝パリの人たちの気晴らしをつとめ、毎日、民衆の陽気さへの欲求をみたし養っている一人の人物についてかたりたいのである」(中山公男・阿部良雄訳)。その人物こそドーミエというわけである。 そのドーミエの作品を、ボードレールは「一種の迷宮、錯雑極まりない豊饒な森林をなしている」といい、また「誰もこれほどまでにブルジョワを、この中世の最後の名残を、このかくも頑丈な生命をもつ野蛮の廃墟を、このかくも野卑で、かくも奇妙な人間類型を、知り尽くし(芸術家として)愛したものは他になかった」ともいう。 ドーミエがジャーナリスティックな石版画作家として注目を集めたのは1831年12月である。この年かれは「ガルガンチュア」と題する石版画を、盟友フィリポンが経営するオーベール商会のショーウィンドーに掲示した。フィリポンは風刺新聞「カリカチュール」の発行人であり、ルイ・フィリップの王党派政権に批判的なスタンスをとっていた。ドーミエはまず、フィリポンの協力者として登場したのである。 「ガルガンチュア」は、ルイ・フィリップをラブレーの愉快なキャラクター・ガルガンチュアに見立て、その巨大な舌ですべてを貪欲に吸い取ってしまう怪物として描いた。これに激怒した政権は、ドーミエに対して六か月の禁固刑と300フランの罰金を貸すことで応えた。とまれドーミエは、ある種騒々しい脚光を浴びながらジャーナリズムの世界に登場したわけである。その時ドーミエは24歳であった。 ドーミエの風刺は、まずルイ・フィリップとかれを囲む王党派の連中に向けられた。その連中をさまざまにカリカチュアライズすることで、かれらを嘲笑したのである。その風刺があまりにも強烈で、政権の怒りをかったため、フィリポンは「カリカチュール」の発行を断念せざるをえなくなった。それにかわって、政治ではなく民俗を風刺の対象とする「シャリヴァリ」を発行した。ドーミエは、フィリポンの立場をおもんばかって、露骨な政府批判を控え、当時の社会風俗の中に風刺の対象を求めるようになった。風刺対象の具体的な姿は相違しても、風刺の精神には共通するものがあった。それはブルジョア支配への強烈な批判である。そのブルジョワこそが当時のフランスにおいて、ルイ・フィリップの政治を支持するとともに、フランス社会を実質的に支配していたのである。 1848年に二月革命がおこり、それがルイ・フィリップの政権を倒すと、ドーミエは再び政治に関心を向け、批判を始める。二月革命は結局ルイ・ナポレオンの帝政を招いたのだったが、ドーミエは根っからの共和派として、その帝政を強烈に批判した。だが、二月革命の実質的な主役だった労働者大衆への共感は持たなかったようである。かれは階級的な立場から現状を批判したのではなく、超越的な視点から娑婆を見下ろしていたといえる。 1870年には普仏戦争がおこり、それがきっかけでルイ・ナポレオンの帝政は終わる。その結果ドーミエの待ち望んでいたはずの共和制が実現するのであるが、ドーミエが仕事のうえで、共和制の誕生を喜んだという証拠はないようである。ドーミエの関心は、国際問題のほうに向けられた。ドイツやイタリアが国家統一を果たし、国際関係の舞台に有力なプレーヤーとして現れると、ドーミエはそれらに批判的な目を向けた。一方フランスの対外侵略の動きには、ほとんど批判的な目を向けていない。むしろ中国などを野蛮と見ることで、フランスの帝国主義を合理化するようなところがあった。晩年のドーミエは、狭隘なナショナリズムに毒されてしまったように見える。 ここではそんなドーミエの、時代ごとの代表作品を吟味しながら、かれの石版画家としての変遷ぶりを追ってみたいと思う。(上はエティエンヌ・カルジャによるドーミエの肖像画) ガルガンチュア:ドーミエの風刺版画 七月の英雄:ドーミエの風刺版画 悪夢:ドーミエの風刺版画 過去・現在・未来:ドーミエの風刺版画 立法府の腹:ドーミエの風刺版画 トランスノナン街:ドーミエの風刺版画 ラファイエットはくたばった、ざまあみろ:ドーミエの風刺版画 投資代理人ロベール・マケール:ドーミエの風刺版画 聖書商人:ドーミエの風刺版画 慈善家ロベール・マケール:ドーミエの風刺版画 セーヌはコート・ドール県に源を発し:ドーミエの風俗版画 時計の安全鎖売り:ドーミエの風俗版画 コレラ流行の記録:ドーミエの風俗版画 さあ! デディ-ヌ:ドーミエの風俗版画 優等賞の授与:ドーミエの風俗版画 選挙:ドーミエの風刺版画 よきブルジョワ:ドーミエの風俗版画 最後の閣僚会議:ドーミエの風刺版画 テュイルリー宮の腕白小僧:ドーミエの風刺版画 改革宴会派:ドーミエの風刺版画 ナポレオンの客船:ドーミエの風刺版画 女性社会主義者たち:ドーミエの風刺版画 ヴィクトル・ユーゴー:ドーミエの風刺版画 ラタポアールとカスマンジュー:ドーミエの風刺版画 観閲の日:ドーミエの風刺版画 シャンゼリゼへ!:ドーミエの風刺版画 パリ取り壊しの影響:ドーミエの風刺版画 北方の熊:ドーミエの風刺版画 中国にて:ドーミエの風刺版画 写真術を芸術の高みに引き上げるナダール:ドーミエの風俗版画 釘打ち銃発明者の夢:ドーミエの風刺版画 わしは鳥じゃ:ドーミエの風刺版画 ビスマルク氏の悪夢:ドーミエの風刺版画 |
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