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トゥールーズ=ロートレック:ポスター作品の鑑賞と解説


アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック(Henri de Toulouse-Lautrec 1864-1901)は、36歳の若さで死んだが、その短い生涯におびただしい数の作品を制作した。1000点に上る絵画作品(油彩及び水彩)、400点以上のグラフィック作品、そして5000点以上のデッサンである。しかし彼の芸術家としての名声は、わずかな数のポスターによると言っても過言ではない。彼が生涯に制作したポスターは31点にすぎないが、もしこれらのポスターを制作することがなかったなら、偉大な芸術家としての名声を残すことはなかっただろう。

他の多くの芸術家と異なって、トウールーズ=ロートレックは経済的には恵まれていた。彼は金のために絵やポスターを描いたのではなく、純粋に芸術的な満足のために描いたのだった。トゥールーズ=ロートレックは、貴族階級の出身であり、しかも裕福な家庭に生まれたので、金に不自由することはなかったのだ。彼はその代り、身体的なコンプレックスに悩んだ。というのも、おそらくは病気のせいで身体とりわけ脚部の成長がとまってしまい、身長は五フィート(150センチ)に満たなかったのだ。彼が芸術に打ち込んだのは、このコンプレックスを克服するためだったのかもしれない。

画家としてのトウールーズ=ロートレックは、娼婦や踊り子などを多く描いた。若いころから金にあかせて放蕩し、キャバレーの女給や娼婦たちと快楽的な生活に耽溺しながら、そうした女たちをモデルにして描いたのだった。その表現には人間的な温かさがあると指摘される。貴族出身のトゥールーズ=ロートレックがどこでこうした人間性を獲得したか興味深いところだ。またトゥールーズ=ロートレックの作品にはジャポニズムの影響を指摘できるが、これはコルモンの画塾の兄弟弟子であるゴッホと共通する傾向だ。

トゥールーズ=ロートレックの最初のポスター作品は1891年に制作された。その二年前にモンマルトルに開業したキャバレー、ムーラン・ルージュの経営者シャルル・ジドレがトゥールーズ=ロートレックにポスターの制作を注文したのだった。ジドレはそれ以前に、ジュール・シェレにポスターの制作を依頼していたが、このシェレこそ、ポスターを芸術作品として認めさせた最初の人だった。トゥールーズ=ロートレックはシェレの切り開いた道を歩みつつ、ポスターを立派な芸術作品の一分野として世界中に認めさせる役割を果たしたわけだ。

トゥールーズ=ロートレックのポスターは、リトグラフの技術を応用したもので、これもシェレのやり方をさらに押し進めたものだ。31枚のポスター作品の大部分はこの方法によって製作されているが、後には石のかわりに銅板を用いた方法も採用した。これらの方法が大量生産と結びついたことには、印刷術の進歩が働いていた。大量印刷技術と結びついて、トゥールーズ=ロートレックの作品はパリ中いたるところの街角を飾ることになったわけだ。

ここでは、トゥールーズ=ロートレックのポスター作品31点のうち、芸術的な完成度の高い作品を選んで取り上げ、鑑賞しながら適宜解説・批評を加えたい。


ムーラン・ルージュ:ロートレックのポスター

アンバサドゥールのアリスティード・ブリュアン:ロートレックのポスター


エルドラドのアリスティード・ブリュアン:ロートレックのポスター

喜びの女王:ロートレックのポスター

ディヴァン・ジャポネ:ロートレックのポスター

ジャルダン・ド・パリのジャンヌ・アヴリール:ロートレックのポスター

アリスティード・ブリュアン:ロートレックのポスター

断頭台の下で:ロートレックのポスター

コーデュー:ロートレックのポスター

ミルリトンのブリュアン:ロートレックのポスター

ドイツのバビロン:ロートレックのポスター

当世の職人:ロートレックのポスター

写真はP・ペスコー:ロートレックのポスター

メイ・ベルフォール:ロートレックのポスター

ルヴュ・ブランシュ:ロートレックのポスター

メイ・ミルトン:ロートレックのポスター

サロン・デ・サン:ロートレックのポスター

マドモアゼル・エグランティーヌ一座:ロートレックのポスター

狂った牝牛:ロートレックのポスター

シンプソンのチェーン:ロートレックのポスター

ジャンヌ・アヴリール:ロートレックのポスター

ラ・ジターヌ:ロートレックのポスター




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