壺齋散人の 美術批評
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カラヴァッジオ:バロックの先駆者


カラヴァッジオ(Caravaggio 1571-1610)はバロック美術の先駆者として、レンブラント、ベラスケス、フェルメールといった画家たちに多大な影響を与えた。また、徹底したリアリズムの画風は、バロック美術を超えて、近代美術に決定的な影響を及ぼした。美術史上、時代を画した偉大な画家といえる。

カラヴァッジオは、画家としては偉大だったが、一生活者としては、あまり褒められた人生を送らなかった。若いころから血気盛んで、無頼漢のような暮らしぶりであり、たびたび傷害事件を起こしては、投獄されたことも何回かあった。その挙句に殺人事件までおこしてお尋ね者になり、また、傷害事件の相手方から命をつけねらわれ、瀕死の重傷を負ったばかりか、放浪先の寒村で生き倒れの死を迎えた。そんなカラヴァッジオの生きざまを、イギリスの映画監督デレク・ジャーマンがとりあげて、「カラヴァッジオ」という映画を作ったから、これを見てカラヴァッジオ像を結んだ人も多いだろう。映画の中のカラヴァッジオは、男色愛好家にして女性にも食指を伸ばし、女性をめぐる三角関係のもつれから殺人を犯したというふうに描かれている。

カラヴァッジオは本名をミケランジェロ・メリージといい、ミラノの近郊の町カラヴァッジオの出身である。カラヴァッジオという通称は出身地からとられた。ルネサンス以来、画家が出身地で呼ばれるのはよくあることだった。父親はカラヴァッジオに領地を持つスフォルツァ家の執事兼建築家という身分だった。父親が息子に芸術上の才能をさずけたという証拠はないようである。ではカラヴァッジオはどのようにして絵の技法を身に着けたのか。

13歳の時、カラヴァッジオはミラノに出て、画家ペテルツァーノと四年間の住み込みでの徒弟契約を結んだ。ペテルツァーノはあまり高名な画家ではないが、その写実的な画風はカラヴァッジオに大きな影響を与えたようだ。カラヴァッジオの画風の特徴は、徹底した写実主義と強烈な明暗対比であるが、それらをカラヴァッジオはペテルツァーノから学んだと思われる。

ミラノでのカラヴァッジオの少年時代から青年時代にかけての業績はほとんど伝わっていない。1592年の秋、カラヴァッジオ21歳のとき、ローマに出て来た。当時ローマは、1600年のジュビリーを控えて教会や公共建築物の修復が盛んで、建築物を飾る美術品への需要が旺盛であり、画家は仕事にありつきやすかったという。カラヴァッジオはその噂を聞いて、単身ローマにやってきたのだろう。ミラノには全く未練がなかったことは、その後二度とミラノを訪れていないことからわかる。師匠のペテルツァーノにも、義理を感じていなかったようだ。

ローマでは、いろいろな人間を頼って風来坊のような生活をし、そのかたわら絵を描いた。絵のモデルには、無頼漢の仲間もあった。また、カラヴァッジオの同性愛の相棒もあったといわれる。「病めるバッカス」と題した自画像は、その頃の作品である。

1595年に、デル・モンテ枢機卿に拾われ、ナヴォナ広場の近くにある枢機卿の広大な屋敷に、おそらく同性愛の相棒だったミンニーティともども移り住んだ。ここで生活の安定を得たカラヴァッジオは、本格的な創作活動に入る。デル・モンテやその友人ジュスティアーニなどが、カラヴァッジオのパトロンとなってくれた。かれらのために描いた作品として、「合奏」、「リュートを弾く人」などがある。この頃までのカラヴァッジオの作品は、世俗的なテーマを描いていた。

カラヴァッジオはやがて宗教的なテーマも描くようになる。当時はやはり宗教的な作品に需要が多かったのである。「エジプトに逃れる聖家族の休息」とか「マグダラのマリアの回心」といった作品が、カラヴァッジオの初期の宗教画を代表するものである。マグダラのマリアのモデルは、フィリーデ・メランドローニという高級コールガールで、後にカラヴァッジオが殺すことになるラクッチオ・トマッソーニの情婦だったといわれる。この女性をカラヴァッジオも気に入って、ほかにもモデルに使っている。

カラヴァッジオにとって画家としての出世を決定づけたのは、コンタレッリ礼拝堂のために描いた三つの作品だった。まず「聖マタイの召命」と「聖マタイの殉教」を描き、続いて「聖ペテロの磔刑」を描いた。これらの作品は大変な評判となり、カラヴァッジオの名声を一気に確立した。これらの作品は、徹底したリアリズムと強烈な明暗対比というカラヴァッジオの特徴が如何なく発揮されたもので、しかも宗教的な厳粛さを感じさせるものだったのである。

コンタレッリ礼拝堂の成功によって、カラヴァッジオには多くの注文がくるようになった。サン・ルイジ・デル・フランチェージ聖堂の「聖マタイと天使」や、サン・タゴスティーノ大聖堂の「ロレートの聖母」などがその代表的なものである。また、サン・ピエトロ聖堂に飾る絵の注文も受けた。当時、画家にとってサン・ピエトロ聖堂に自分の絵が飾られることは無上の光栄と考えられていたから、カラヴァッジオは嬉々としてその制作に取り掛かったにちがいない。ところが、「蛇の聖母」と題されたその作品は、受領を拒否されてしまったのだ。カラヴァッジオにとっては手痛い仕打ちであった。

その頃がカラヴァッジオの全盛期で、やがてかれは速やかに表舞台からの退場を余儀なくされる。1606年5月に、カラヴァッジオはラヌッチオ・トマッソーニを乱闘の末殺害し、それがもとで死刑判決を受け、お尋ね者となってしまったのである。それ以後、1610年に死ぬまで、二度とローマに戻ることはできなかった。その流浪の間にもカラヴァッジオは旺盛な創作意欲を発揮している。最晩年の傑作としては、「洗礼者聖ヨハネの斬首」とか「聖ウルスラの殉教」などがあげられる。

カラヴァッジオは1610年7月18日、流浪の果てにトスカーナの港町ポルト・エルコレで死んだ。その死は多くの人々によって残念に思われた。カラヴァッジオの才能を考えれば、だれもが惜しい人物を若くして失ったと思うのは無理もないのである。ここではそんなカラヴァッジオの代表作を取り上げて、鑑賞のうえ適宜解説・批評を加えたい。(上の絵は、メドゥーサの首に扮した自画像)



病めるバッカス:カラヴァッジオの世界
トカゲにかまれた少年:カラヴァッジオの世界
いかさま師:カラヴァッジオの世界
音楽家たち:カラヴァッジオの世界
女占い師:カラヴァッジオの世界
リュートを弾く人:カラヴァッジオの世界
バッカス:カラヴァッジオの世界
聖フランチェスコの法悦:カラヴァッジオの世界
エジプトに逃れる聖家族の休息:カラヴァッジオの世界


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