壺齋散人の 美術批評
HOMEブログ本館東京を描く水彩画ブレイク詩集フランス文学西洋哲学 | 万葉集プロフィールBBS


デューラー(Albrecht Dürer)の芸術


デューラーの生涯
デューラー少年時代の自画像
デューラー青年時代の自画像
デューラー1500年の自画像
デューラー晩年の自画像
デューラーの父
デューラーの母
デューラーの妻
北から見たトレント:デューラーの水彩風景画(空気遠近法)
ヴェネチアの砦―アルコ:デューラーの水彩風景画(浮彫り画法)
蟹:デューラーの水彩動物画
バッタのいる聖家族:デューラーの銅版画
四人の魔女:デューラーの銅版画
ヨハネの黙示録シリーズ:デューラーの木版画
キリストと七つの燭台:デューラー「ヨハネの黙示録」
黙示録の四騎士:デューラー「ヨハネの黙示録」
第五、第六の封印:デューラー「ヨハネの黙示録」
風を止める四天使:デューラー「ヨハネの黙示録」
ラッパを吹く天使:デューラー「ヨハネの黙示録」
書物を食べるヨハネ:デューラー「ヨハネの黙示録」
大天使ミカエルと竜の戦い:デューラー「ヨハネの黙示録」
尾長猿のいる聖母子:デューラーの銅版画
エジプトにおける聖家族の休息:デューラー「聖母伝説」
野兎:デューラーの水彩動物画
芝草:デューラーの水彩植物画
ネメシス:デューラー「人体比例の研究」
アダムとイブ:デューラーの銅版画
パウムガルトナー祭壇画:デューラーの芸術
東方三王の礼拝:デューラーの祭壇画
ローゼンクランツ祝祭画:デューラーの油彩板絵
アダムとイブ:デューラーの油彩画
一万人のキリスト者の殉教:デューラーの世界
ヘラー祭壇画:デューラーの失われた傑作
ランダウアー祭壇画:デューラーの三位一体図
三位一体図:デューラーの木版画
騎士と死と悪魔:デューラーの三大銅版画
メランコリア:デューラーの三大銅版画
書斎の聖ヒエロニムス:ヂューラーの三大銅版画
皇帝マクシミリアン一世の肖像:デューラーの世界
聖ヒエロニムス:デューラーの油彩肖像画
四人の使徒:デューラー最後の大作



アルブレヒト・デューラー(Albrecht Dürer 1471-1528)は、ドイツの美術史に屹立する巨人であるばかりでなく、ヨーロッパの絵画史においてもユニークな地位を占めている。

まず、ドイツには、デューラーが登場するまでは、まともな絵画は存在しなかったといってもよい。デューラー以前のヨーロッパにおいては、イタリアとネーデルラントが絵画の二大中心地であった。イタリアでは、クヮトロチェントと呼ばれた15世紀にルネサンス絵画が花開き、ネーデルラントでは、やや遅れてファン・エイク兄弟を中心に独特な油絵の世界が展開されていた。デューラーは、この二つの流れを自分のものとして吸収しつつ、ドイツの美術史を新たな時代へと導いたのである。

デューラーの生年を、イタリアの偉大な芸術家と比較してみると、ダ・ヴィンチが1452-1519、ミケランジェロが1475‐1564、ラファエロが1483-1520である。つまりデューラーは、イタリア・ルネサンス盛期の芸術家たちの同時代人だったということになる。このことから、デューラーはドイツにイタリアのルネサンス芸術の息吹を伝え、ドイツを中心にした、いわゆる北方ルネサンスの立役者だとする評価が一般的になる。

たしかにそうではあるのだが、だからといって、デューラーがもっぱら近代的な精神の体現者であったかといえば、事情はそんなに単純ではない。技法的には中世的ゴシック精神を脱却し、ルネサンスの近代精神を体得した一方、内面的には中世の精神を大きく引きずっていたのである。版画作品などに顕著にみられるように、デューラーはルネサンス的な明晰さを以て、中世の精神を表現したと言えるほどに、古いものと新しいものとが共存した複雑な陰影を感じさせる。

こんなところから、デューラーはヨーロッパの絵画史において、中世的なものとルネサンス的なものとの橋渡しをした過渡的な芸術家であり、彼の絵画作品はルネサンス的明晰さと中世的深刻さとの混合物であったと評価することもできる。

今日まで伝わっているデューラーの作品は、約110点の絵画、約350点の木版画、約100点の銅版画のほか、素描が1200枚以上に上る。このうち絵画は、板のパネル、麻布のキャンバス、羊皮紙などに描かれた。板絵には油彩、麻布には水溶性テンペラ、羊皮紙にはミニアチュール技法(写本の彩色挿絵の技法)を用いて描いたものが多い。

デューラーはまず版画作家として名声を確立し、ついで二度にわたるイタリア旅行を契機にして板絵作家としても認められるようになった。版画のなかでも木版画は、15世紀になって始まったばかりの若い分野であったが、デューラーはそれを一気に成熟した芸術へと高めた。一方板絵については、注文に応じて作成したが、版画に比べて労力を要する割には収入が多くないと言って、晩年にはあまり力を入れなくなってしまった。

デューラーの作風と言えば、細密画を思わせるような綿密で写実的な描き方が思い浮かぶが、デューラーはこれを、イタリア・ルネサンスの巨匠たちから学んだ。彼には「人体のプロポーションについて」という著作があるが、それはダ・ヴィンチの研究に触発されたものだといわれる。彼にとって、絵画芸術とは、自然をいかに忠実に再現するかということであって、人間を含めた自然こそが表現の対象であったわけである。しかし、その自然の概念のなかには、先ほど述べたように、同時代のドイツに依然として息づいていた、中世伝来の非合理的イメージも含まれていたことを見逃せない。

デューラーは、同時代の芸術家たちと同じく、単独で制作する孤立した製作者ではなく、画房を構えて多くの絵画職人を擁した、画家集団の責任者と言う顔を持っていた。デューラーの時代には、絵画は芸術と言うより実用品として扱われ、絵画を作るものは画家と言うよりは職人とされていたのである。デューラーの板絵のうちでも、祭壇画などの巨大な作品は、構想こそデューラー本人が立てたものの、細部の大部分は弟子たちの手によって描かれたのだった。もっとも、デューラーは完成した作品に、自分のモノグラムを描き入れるのを忘れなかった。

先ほど述べたように、デューラーはドイツではまず版画作家として認められたのであるが、当時のドイツ人にとって、版画は芸術と言うよりは実用品だった。それ故、ドイツ人の誰もが、デューラーを偉大な画家などとは思っていなかったのである。デューラーを偉大な芸術家として最初に認めてくれたのはイタリア人だった。二度にわたるヴェネチア滞在で、イタリア風の明るい絵画に目覚めたデューラーは、イタリア・ルネサンスの巨匠にも劣らない偉大な画家だという名声を獲得し、その名声はドイツ人の間にも広がっていった。最後には神聖ローマ皇帝マクシミリアン一世からも評価され、肖像画作成の依頼を受けたほどであった。その点では、デューラーは生前に故郷に錦をかざることができたわけである。

もっともデューラー自身は、自分が金銭的にも成功したとは考えていなかったようだ。彼は様々な機会に、自分がいかに貧乏であるかについて強調しているのである。しかし本人がいうように、誰の目から見ても貧乏であったかについては、議論があるところだ。

デューラーは、水彩画の歴史においても偉大な先駆者として位置づけられる。デューラーの水彩画の多くは、板絵のためのウォーミング・アップとして書かれたが、中には純粋な個人的喜びを目的として描かれたものもある。それらの絵もまた、版画や板絵と同様、極めて写実的で、しかも微細にわたるものである。

デューラーの時代のドイツでは、まだ鉛筆が普及していなかったので、デュー―ラーは多くの場合ガチョウの羽根ペンで下絵を描いた。絵の具には、透明水彩絵の具と不透明なグアッシュとを併用した。デューラーの水彩画の多くが、今日でも色彩の鮮やかさを失っていないのは、自然の顔料を用いているせいだと考えられる。

以下このサイトでは、デューラーの様々な芸術作品について、ほぼ年代順に紹介の上、その芸術的な意味合いと美しさの秘密について読み解いていきたい。





HOME







作者:壺齋散人(引地博信) All Rights Reserved (C) 2011-2013
このサイトは、作者のブログ「壺齋閑話」の一部を編集したものである